ずぶぬれの犬、「写真撮影はご遠慮ください」。

2017.06.01

日曜の朝、飼い犬を風呂に入れる。ニーチェみたいな髭の、ドイツ産ミニチュア・シュナウザーだ。私は彼を浴室に入れ、シャワーを浴びせる。立派な髭は水にぬれると19世紀のロシア作家(おもに晩年のトルストイやドストエフスキー)のように垂れ下がり、全身が濡れ骨格が露出する姿を見て「貧相だな」と思う。しかし次の瞬間。彼は体をおおきく左右に振って、自分を濡らした〝水〟をブルブル外へ弾き飛ばす。このおそろしく本能的行為を眺めているとき、私は理解した。「この犬の姿こそ、現代人だ!」
現代人の姿は風呂上がりの犬だ。我々も彼を見習って、体を左右にブルブル振り、それでもまだ体の真に残る水を飲めば良い。
もちろん現代人にとっての「水」とは「情報」のことだ。

200年前にヘーゲルは、「歴史とは人間が自由を実現していく過程。」と言ったがヘーゲルから200年で人類はもうひとつ歴史を積み重ねた。すなわち、「人間は、自由の為に道具を開発し、開発した道具の奴隷となる。」グーテンベルクによる活版印刷からはじまる『情報革命』にいよいよインターネットが登場した。情報とは、道具だ。しかし、「人間は人間の豊かさの実現のため物を生みだし、生み出した物に支配され、最後には物のために生きるようになる。」これもまたひとつの歴史。近年、資本主義という体制の元「金」という道具に人類が隅々まで支配されたという事実を見てもそれは明らかだろう。「資本主義社会」は仕事へ服従し、熱心に働いて金を得ることを「美徳」とする人間を創造した。しかし、ここでもう一つ重要な歴史がある。すなわち、「道具は、誰もが使いだすと、その価値を薄める。」これから歴史通り歴史が進むと、資本主義社会の中で「金」の価値はなくなり、情報社会の中で「情報」の価値はなくなるというわけだ。

ところで、『服従』というスキャンダラスな本を切欠に「ミシェル・ウェルベック」の存在を知った人も多いだろう。今をリアルに捉え、未来を描く作家だ。ウェルベックが描く「未来」とは、ポスト資本主義、ポスト消費主義、ポスト人間主義、ポスト自由主義後の中で生きる個人が陥るであろうニヒリズムだ。その小説の主人公の姿に、資本主義が隅々まで発展した21世紀に生きるムルソー(カミュ、異邦人)を観る。私は昨日『地図と領土』を読み終えた。この小説は「物」を表現するため写真家になり「人間」を表現するため画家となった芸術家ジェドの話だ。彼は言う、「何年ものあいだ、孤独に仕事を続けることはできる。それが本当の意味で仕事をする唯一のやり方でさえある。だが必ずや、自分の作品を世の人々に示したいという欲求を覚えるときがやってくる。世間の評価を知るためというよりも、作品、さらには自分自身が本当に存在しているのだということを確かめるためである。社会の内部にあって、個人とは、束の間のフィクションにすぎない。」この言葉が表すことの意味は何だろう?ナポレオン以降に「自由」を獲得した孤独な人間は全員がなにかしらの芸術家になる必要に迫られた。しかし芸術家は傷つきやすい。なぜなら彼が尊重されるには「成功」という「結果」が必要だからだ。いま彼が属する社会で彼の作品が売れなければ彼は隣人から「狂人」と呼ばれかねない。しかしガリレオは今でこそ「偉人」として教科書に登場するが、16世紀に「地球が太陽の周りを回っている」と主張したら「狂人」と呼ばれ、牢屋にぶち込まれた。ニーチェの場合はもっと直接的だ。彼は最後までシステムに同意することを拒絶し、本当に発狂して死んだ。独りぼっちでどんな法にも従わない、自ら内につくった法にのみ従う愛しきニーチェさん。生前、社会からほとんど承認されず、それでも作品を創り続けたファン・ゴッホやフランツ・カフカは生きている間「不幸」だったのだろうか?いやおそらく、彼らにとって純粋な「幸福」の時とは、作品を創るその「瞬間」にあったのではいかと思う。少なくともその瞬間に、人間は「自発性」を認めることができるからだ。その「創造的活動」こそが、彼が彼のパーソナリティーを犠牲にすることなく孤独を克服する道にほかならない。それは活動そのものが大切で、結果が大切ではないということを意味する。しかし、いま我々が生きる社会にあっては、残念ながらまさにその逆が強調される。我々は満足を目指して生産するのではなく「商品を売る」という目的のために生産をする。「マーケティング」という言葉はもっともこの現象を抽象的に表した言語だろう。いまやマーケティングにも『情報革命』がおこる。企業は専用のサーバーを導入してインターネット上にネットワークを形成し、蜘蛛の巣を張り巡らす。サイトにアクセス(網にかかった!)消費者に「印」を付け、その印をどこまでも広告で追いかけるのだ。消費者のスマートフォンがインターネトにアクセスすると各々に異なるバーナー広告が現れ、ポイントカードなどのビックデーターと連携した企業は個人情報を略奪し、丸裸にし、郵便ポストにポスティングする。今や「個人」は「企業」によりセグメーションされ、ポジショニングされている。フィリップ・コトラーは「商品」を「市場」にポジショニングしたが、今や個人が商品にポジショニングされているのだ!(ここで言うコトラーは軽く10年以上前の話だ。いまやコトラーが何を言っているのかは知らないし、興味もない。たしか〝マーケティング3.0〟とかなんとかいう本を書店で見かけた)。とにかく、商品は市場に依存し、人間は商品となる。そしてそこでの「価値」とは、市場という名の「他人からの承認」により決定される。この事実を元に、おそらくSNSは発展すべくして発展した。カール・マルクスが2017年を見たら冷静にこう分析するだろう「承認欲求とは、資本主義の発生とその後の発達により生まれた。」いま企業はさらなる工夫を消費者から強いられる。SNSの発達によって企業は個人からなされる「発信」を軽んじることができなくなったのだ。これまで企業が広告代理店を通じて買い取っていた「枠」は、今や個人に引き継がれつつある。そうしたなかでInstagramのフォロワーを売買する会社が現れるとインスタグラマーのアカウントを審査する会社も現れる。それらはすべて「情報」という価値ある商品を扱った産業だ。もちろん数年後にAI技術が本格的導入されると状況はますます激化するだろう。現代は「繋がる」時代だと言って、大衆は「いいね!」のボタンを押す。繋がる時代とは、共感の時代のようだ。私はそんなヴァーチャル空間に足を踏み入れると、「嘔吐」しそうになる。それは「呆れ」や「怒り」のような感情よりもっと身体的な反応としての気持ち悪さだ。
2011年震災後、大衆は目覚めたように現実を観て、ヴァーチャルで発信し語り合った。そこには混沌としたカオスから新しい何かが生まれる前のような熱があった。「このツールで何かが変わるのかもしれない!」私もそう思った。しかし時間の経過とともに熱が冷めると(あぁこれはけっきょく宇宙の法則なのだ!)人類は歴史が証明する通りSNSという道具に余す所なく支配された。5年後に、隣町で地震がおきた。私はその時に、「このヴァーチャル空間から一刻も早く退場しなければ!」と嘔吐したのだ。大いに誤解を招く言い方だが発言しよう。私があのときあの空間で見たものは、「絆」という言葉の消費に縛り付けられ、そこに「依存」を求めた個人の姿だ。
ナポレオン後に自由を獲得した人間は自由という孤独の重みに耐えられずヒットラーに服従した。個人は「絆」とは別の方法で、自らに方向性を与え、世界を歩かなければならない。「孤独」を引き入れられない人間はニヒリズムに陥り、そこにSNSのような限定された空間があると、ある種のファシズムが生まれる。ヒットラーは言う、「大衆集会は必要である。個人がはじめて大衆集会に足を踏み入れ、同じ信念をもつ人々との間に身を置くなら、彼は我々が大衆暗示と呼ぶところのものの魔術的な影響に屈する。」いまスマートフォン画面を習慣的に眺めるあなたはヒットラーに服従しないと言えるだろうか?21世紀のアイヒマンにならないと言えるだろうか?天皇制ファシズムというイデオロギーに従い、「特攻」しないと言い切れるだろうか?あらゆるイデオロギーはシステムが生み出した虚構にすぎない。
気狂いが!突然何を言いだすか?と思われるかもしれない。しかし情報とは、それほどまでに危険なツールなのだよ、諸君!スマートフォンに縛り付けられた現代人は全員なにかしらのニヒリズムに陥っている。19世紀に生きたニーチェが既に予言しているのだ。「20世紀と21世紀はニヒリズムの時代になる。」ニーチェが2017年を見ると警告を発するだろう、「自己は他者の承認を必要としない!実存に目覚めろ!自分を自分以外に支配させるな!物に支配されるな!奴隷になるな!」キルケゴールならこう警告する、「SNSという同じ情報、同じ価値観にまみれ生きていると自己が失われる。それは自己喪失であり、精神の滅びであり、絶望であり、死にいたる病である。」さらにヤスパースが援護する、「つまり心の内から沸く声に耳を傾け、まずは単独者として孤立する。孤立者同士の緊張と孤独をはらんだ交わりこそ、人間を自己の実存に目覚めさせるものとなる。」ハイデガーも口を挟む、「誰しも避けることができない〝死〟という現実を直視し、それを積極的に引き受けることによって、人は本来の自己に目覚める。実存に立ち返った人間はSNSのような世間に埋没して、時間を浪費するようなことはしない。」最後にサルトルが締めくくる、「人間は情報の刑に処されている。自由を欲する欲求と、承認を欲する欲求は、反対する。」

さてそのようにして、いまや私がスマートフォン画面を立ち上げると直ぐさまアダルトサイトのバーナー広告が現れ、速やかに動画サイトへ誘導される。どうやら私は連中に「マスかきK」とかいう印でも付けられたのだろう。もちろん実際にその通りだ。今やインターネット空間でアダルトサイト以外に消費するべきものが何かあるだろうか?資本主義という自然環境が行き着いた先は、サンプル動画でヌケる時代だ。これは精液消費者(つまりほとんど全てのホモ・サピエンス雄)にとってこの社会に生きる美点であり、アリストテレスが言うところの〝最高善〟カントが言うところの〝無条件の善〟は21世紀のグローバル化するアダルト・カルチャーにより実現された(おっと、私はどうやらウェルベックの文体に犯されている!そろそろ正気に戻ろう!!)いまや「資本」が人間を要求し、創造する。飽くことなく消費する人間。全てにおいて基準化され、他からの影響を受けやすく、行動予測のたつ人間。物を消費し、情報を消費し、孤独をまぎらわす人間は「資本」にとっての「商品」となる。インターネットによるお手軽なコミュニケーションが我々に速やかな逃亡の方法を教え、資本主義という体制の下それが消費に直結する。大量の消費が必要なのは、人間が孤独になった為だ。資本主義が成立する原理とともに、資本主義は自由という名の孤独を発明した。
ウェルベックの『地図と領土』(芸術家ジェドの話だ)に話を戻そう。資本主義の中にあって、生産の重点は「創造的行為の満足」ではなく、完成された生産品の「消費価値」におかれる。そのようにして、人間は自分に本当の幸福を与えてくれる「現在の活動の満足感」を逃し「成功という名の幻」の幸福を追い求めはじめる。しかし自身を創造的人間と感じる人間の人生になにか意味があるとすれば、それは生きるという行為そのものにある。それは人間の自発的活動により瞬間瞬間に獲得される快楽を源とした「自己実現」であり、それは幻を必要とする諸要件を排除した「本当の自由」だけが与えてくれる幸福である。人間は自発的に社会参加するときにのみ孤独を克服することができるのだ。チャップリンがモダン・タイムズで発した警告は時代が進むにつれて意味を増し強力なものとなった。「我々はもう、すっかり大きな機械の歯車の一部になってしまったのだ!」
『産業革命』とは、現代人の性格構造構築の時代でもあった。そのような時代でニーチェにより個人の、マルクスにより全体の警告が発せられるが『情報革命』の時代を生きる我々現代人の人生はもうすこし複雑なものとなる。ここにひとつ、例をあげてみよう。

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(例) 人生は、西瓜。
ここに1人の男がいる。職業は個人的トレーダーとしておくが、ここはサラリーマンにでも公務員にでも好きなように変えてよい。30歳を過ぎた彼は大抵の人間がそう考え始めるように、人生おき「生きることの意味」を見いだせずにいる。それでも彼がそんな考えを取り合いず横に置いて生きていけるのは、彼が「資本主義」というシステムに巻き込まれているからだ。
彼は毎朝6時に起床してシャワーを浴び、「日本経済新聞」を読みながら朝食を食べ、コーヒーを飲む。ラジオをつけ、モニタで情報を収集しながら徐々に意識を〝取引〟に向けていく。昨晩のニューヨーク、ロンドンの値動き、ドル、円の動き、ニュージーランドとオーストラリアの為替マーケット、ポディション、ランキング、海外と国内のニュース情報を収集し、心電図のような銘柄チャートを見ながら思考して取引開始時の気配を探る。9時になり、取引が始まると同時に2台のパソコンと4台のモニタの前で人間に備わる〝器官〟という材料をひらき、それを総動員する。彼は自分にルールを設ける。【市場への解釈を欲し、流れを認識すること。大きく考え、小さく考えること。最悪を考え、最高を考えないこと。リズムをとり、リラックスすること。そのため情報は選別し、無目的な情報を受信しないこと(テレビやラジオから耳を塞ぐ)。世界を妄想し、取引そのものを楽しむこと。それはすなわち「解釈」や「認識」そのものについて考えること。】積み上げたルールを守ってプレイする限り、彼がこの社会で生活するために金を稼ぐことはもはや困難ではない。「世界はバウムクーヘンだ。表面の層を見るのではなく、その下にある層を〝観る〟しかし何重にも重なった層の中心にあるものは、丸い穴。情報ばかりを追いかけていると、その穴に落ちる。本当にシステムを捉えようと試みるのなら、人はバウムクーヘンを真上から眺めて〝歴史的〟に考える必要がある。」集中して、目の前に現れる現象に瞬間的決断を下すという作業を息継ぎをしらないスイマーのように続けていると、脳内に「ある」と言われるニューロンからニューロンへ、プツプツとシナプスが飛び交う音が聴こえてくる。ここがもう限界、オーバーヒート、プッシュー。そんな時こそ、「コーヒーブレイクしよう!」彼はインドネシア産の深煎コーヒー(スマトラ・マンデリン・アチェ)を淹れ、それを片手にリラックスしながら東インドオランダ株式会社に植民地化されたインドネシア人のことを歴史的に想像してみる。大航海時代に、ヨーロッパ人は新大陸との貿易に国の基盤を置いて反映した。オランダ人はインドネシアからコーヒー生豆を持ち出してそれを新大陸へ伝承したが、その過程で思いがけない仕組みを発明した。投資家は、航海へのリスクヘッジのために航海ごとに出資者を募り、有限責任の株式会社というシステムを考えたのだ。そこに〝資本〟と呼ばれるものが生誕し、時代は新しい商業作物を探して、コーヒーがクローズアップされた。そこでの原則原理は『安く買い高く売る』だ。「俺も同じじゃないか!」と彼は思う。巨大なシステムの隙間で、毎日ささやかな株式の移動を行う。時代が進むにつれ労働者は自分より多くの資本をもつ独裁者の力に直面した。資本が決定的に重要なものになった現代では、経済が人間の運命をも決定する。資本は人間の主人に、人間は資本の奴隷となり、資本は〝資本主義〟というシステムになった。高度に発達した資本主義社会では、労働ではなく投機が現実的利益を生み出す。彼は銀行と投資家のみを潤し、労働者を貧困に追いやる19世紀のイギリス社会で資本主義を批判するマルクスの姿を想像するがそんなマルクスには半分しか賛同できなかった。結局のところ、「資本」が「個人」を解放したのだ。個人は資本の誕生により、自己の運命の主人になった。成功も失敗も、独立も依存も、全て自分の手で管理することが可能となったのだ。貨幣は人間を平等なものにし、それは「階級社会」より強力なシステムとなった。「資本主義社会」の内で活動的な役割を果たせば、すくなくとも誰もが自由を手に入れることが出来る!
コーヒーを飲み終えると、彼は目の前にあるモニタを眺めた。「このさきに誰が居るのだろう?」相手はニューヨーク高層ビルの住人かもしれない。アラブの大富豪かもしれない。あるいはそれは人間ですらなく、ただのコンピューターでアルゴリズムかもしれない。見えない相手とマーケットで貨幣の奪い合いをする。「仕方がない」と彼はつぶやく。ここは資本主義社会だ。

夜眠りにつくとき、彼は「歴史」について考える。「人間はみな、時代の息子だ。」ヘーゲルは果てしない広がりをみせる自身の哲学探究の根本に、歴史をおいた。「神」を世界の創造者としてではなく世界のすべてとし、デカルト的な精神と物体(我思うゆえに我あり、だ。)の二元的区別以前の絶対者である「神の動き」を「絶対精神」と名付け、歴史とはこの「絶対精神」が人間の自由な意思を媒介として自己の本質である「自由」を外側に表現し、展開し、「体制」として現実化していく過程だとした。あたかも画家が作品に自己を表現し、対象として外に表すことで画家となるように。「世界は、自由な意思の進歩である。」ヘーゲルは自らの情熱により活動するものの背後に控え自己の目的と一致するものを成功させ他を没落させながら歴史を推進させるものを「世界精神」と名付け、自分の住む街にプロイセン軍を破ったナポレオンが入場する姿を見て、「あれが世界精神だ」と言った。歴史とは、対立を媒介としたうえで「総合」へ向かう運動だ。「あるもの」は全て自身の内に自己と対立する矛盾を含んでいる。その矛盾を、より高い立場で総合することで、「新しい統一」に至る。つぼみは自らを否定し、花となる。つぼみ(テーゼ)と花(アンチテーゼ)が対立してより良い存在にアウフヘーベンし、果実が生まれる。つまり低次の矛盾は高次の段階に移行することで、それが有機的統一のきっかけであったことが明らかとなる。これが有名な「弁証法」だ。ヘーゲルは絶対精神の運動法則を解明するために、弁証法を生み出した。「自然や社会はすべて弁証法によって運動する。」ヘーゲルは「自由」というカント的道徳を個人の内面の主観に留めず、現実社会の客観的な制度にあらわれる「人倫」の問題として捉え、人倫の最高継体を「国家」と考えた。
1. 家族は、自然の情愛で結ばれ情愛を制度化して高めた人倫の形態だが、やがて子供は成長し、親から自立し、家族を離れて一人の市民となる。
2. 市民社会は、個人が自由に欲求の充足を求めて仕事をし、仕事を通じて相互に依存する。それは契約で結ばれた人倫であり、法と行政が管理する経済社会である。競争原理が支配するこの社会は各々がお互いを自己の欲求の為に利用し合う欲望の形態に他ならい。
3. そうして家族と市民社会との矛盾をアウフヘーベンすべく、国家が現れる。ヘーゲルは立法議会(つまり国会)と行政(つまり内閣)の官僚組織を備えた立憲君主制(つまり今の日本そのもの)を思い描いた。ヘーゲルは、国家こそが、有機的な全体として個人の自由と共同性を共に実現するものだという夢を思い描き死だ。

「ヘーゲルは間違えた」と彼は思う。言うまでもなく、今や国家は完全な機能不全に陥っている。そもそもグローバル化した21世紀で「国家」とは、ひとつの単位でしかない。「国家は何に否定されたのか?」と彼は考える。その答えはすぐに思い浮ぶ、「それは経済であり、資本主義だ。」さてここからが問題、「では国家と経済をアウフヘーベンするものは何か?」歴史は今ここにいる。彼はつぶやく。近年で、それはさらなる共同体へ向かった。ヨーロッパで「EU」が誕生し、「世界政府誕生」という言葉が囁かれた。「しかし」と彼は思う。「2016年は転換期だ。」イギリスが脱退を表明するEUが解体の方向へ向かうなかあの男が現れた。「ドナルド・トランプが象徴するものは何か?」言うまでもなく、トランプは現在の世界精神だ。ヘーゲルが見た「ナポレオンの自由」は「ヒットラーの服従」に否定され、ドナルド・トランプにアウフヘーベンされた。「トランプは、分からない。」と彼は思う。テレビではジャーナリストや経済学者が意見を語る。ポピュリズムの台頭。グローバリズムの衰退。ナショナリズム化する世界。第三次世界大戦の可能性。しかし現代人はメディアが予想のつく退屈なことしか言わないということに慣れているし、誰もそんな話に本気で耳を傾けてはいない。これは新聞も、ラジオも、そしてインターネットも同じだ。「今は観ることしかできない」と彼は思う。判断はできない。目で見るのではなく、思考で捉えようと試み続けることしかできない。こうした次元で、情報はその価値を無くすのだ!
彼は今日の彼の思考で捉える。ドナルド・トランプが示すのは、「さらなる共同体」から「個」への移行なのかもしれない。そう考えると、トランプがTwitterを活用していることが面白くなる。「トランプは遥か先の未来を見ている可能性がある。」もちろんそれは希望的な観測でしかない。世界を大いに妄想する。ニューロンが活性化し、シナプスが飛び交い、それが徐々に静まる。頭のなかで観念が消え去ると、目の前が薄暗くなる。夢と、現実のジャンクションのような地点に入った瞬間に、彼は突然激しい現実に思い当たった。
「問題はそんなことじゃない!」暗闇で叫ぶ。「なんてこった!!俺はもうすぐ40歳じゃないか!」彼は咄嗟に、「自分の歴史」を振り返る。しかしほとんどなにも思い出せない。たしかな記憶として思い出した光景は、酔っぱらってはじめて体験するセックスの味だけだった。「仕方がない」彼は自分にアインシュタイン的慰めの言葉をかける「時空のなかに投げ込まれた人間はそれぞれにそれぞれの幻影を見ている」仕方がない。あるいはプラトン的慰めがある「我々は限られた形でしか、世界を捉えることができない。我々の魂は理性を通じ、思考でしか捉えることのできない世界〔イデア界〕にいる」仕方がない。この世界には、デカルトや、スピノザや、ライプニッツ的慰めもある。「生きることの意味?」そんなことを考えても仕方がない。

さて、このような〝人生〟をおくる彼はある日、書店でカミュの『シーシュポスの神話』を手にし、一行目を読んだ瞬間〝真理〟に達した。【真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずはこの根本問題に答えなければならぬ。そして、ニーチェののぞんでいることだが、哲学者たるもの身をもって範をたれてこそはじめて尊敬に値するというのが真実であるとすれば、そのとき、この根本問題に答えることがどれほど重要なことであるか・・・・・】彼は直感的に感じる。人生に「目的」があるとしたら、それは「死ぬ」ということだけだ。そうして、彼の「西瓜人生」がはじまる。ゴータマ・シッダールタという人間が菩提樹で瞑想し仏陀となったように、彼は彼の個人的真理に達したのだ。
生まれて、死に至るまでの間にある時間と空間(アインシュタイン風に言えば4次元)の中で「生きることの意味」とは、「6月から11月にかけて、毎日西瓜を食べ続けること」これが、これのみが真理だ!

さてここで、彼の「食生活」の一部を少しだけ話す必要に迫られる。彼はもともと西瓜よりメロン派だったがメロンは高いのであまり買えず、メロンの次に好きな果物がたまたまマンゴーだった為にやはりこれもあまり買えず、その次の好きな果物はマスカットであり、これはものにより買えたが、やはり安いものはそれなりの味でしかなく(甘味を渋みが包み隠す)一度デパートへ行って高いものを買おうと思い値段を見ると、マスカットというやつはどうやらものによってはメロンやマンゴー以上に高く「こんなもん買えるか!」と怒りに任せて金生饅頭を頬張っていると、「そもそも果物なんて食わなくても生きていける。」というシンプルな結論に至り、果物を食べる習慣がほとんどなくなった。しかし2年前の6月あるゲリラ豪雨の日。スーパーの入り口で「指宿産徳光西瓜」というものが特売されており彼は試しにひとつ買ってみた。ところで彼が中学生の頃には所謂「バンドブーム」があり、彼もそこで様々な音楽に出会ったものだがとりわけ「ニルヴァーナ」の「ブリード」という曲に出会った時の衝撃以上の衝撃がこの西瓜にあった。彼がメロンとマンゴーを好きな理由は、なんと言ってもあのトロン!とした濃厚な甘さにあったのだが、それに比べ西瓜という食べ物はなんだか気のぬけたコーラのように水っぽいものだというイメージしかなく、はっきり言って2年前の彼は西瓜を(世の男がジャニーズ・ジュニアを見る目のように)馬鹿にしていたが、しかしその「徳光西瓜」にひと口かぶりついたとき彼の身体に並々ならぬ快楽の電気信号が走った!この快楽は、バンド時代LIVE前楽屋でエクスタシーを突っ込みブリードを演奏したとき以上の快楽であり、それから彼は冷静にこの西瓜の言語化を目指すが、行き着くところはウィトゲンシュタインの言うところ「語りえぬものについては沈黙しなければならない」であり、つまり西洋で言うところ「神」と同等の存在をこの西瓜に認めた。まず「甘味」を評価すると、それは高級メロンやマンゴーのそれと同等であり、あのトロン!としたボディーは期待できないが、西瓜を食べはじめて彼はあるひとつの事実に気が付いた。結局のところ、彼は歳をとったのだ。トロン!としたボディーは最初のひと口ふた口目は猛烈に旨く感じるのだが、それが続くと胸にもたつきのようなものを感じるようになっていた。彼の頭には最近白髪が目立ち始め、10歳の娘とサイクリングに行くと、「パパ弱ったね」と言われる。根が、生まれつきの虚弱体質なうえに根性なし(根性という社会的概念がまったく理解できない)ときている彼(スポーツマンとして読書する彼にとって、努力という記号は解釈への強烈な欲求にほかならない)は、最近「生命力の衰退」というものをけっこう本気で感じるようになっていた。「エクスタシーでニルヴァーナ」は、もうはるか遠い記憶なのだ!(本当にそんなことあったかな?)今では毎日早寝早起き、適度な運動と入念なストレッチ、禁煙と薄味を愛している。彼はこれまでそれを言葉にして発することを避けてきたのだが、じつはマンゴーとメロンに「胃のもたつき」を感じ始めていたのだ。それに比べると、この西瓜にはみずみずしい「透明感」がある!甘味に包まれた爽やかな酸味もある!これならいくらでも食べられる!そして値段もお手頃だった。400円前後で8分の1カットを買える。これは高いと言えば高いのかもしれないが、昔は毎日煙草を2箱も消費していたのだと考えると安いのかもしれないと思った。それ以来彼は毎日スーパーに通い、西瓜を消費した。特光西瓜の旬が過ぎると、大分や千葉や神奈川や長野から彼に旬の西瓜が供給される。10月が過ぎ、そろそろ西瓜も終わりの時期だという事実に絶望を感じるさなか山形県から「尾花沢西瓜」が供給された。これが安定して糖度13を越える代物で特光西瓜と同等レベルに旨い!この高度に発達した資本主義社会のもと社会化され「旬」の差別化を促された高糖度西瓜は人間に1年の半分も美味しい西瓜を食べるという権利をもたらせており、彼はこの現象を『資本主義化する西瓜、或は西瓜のマルキシズム。』と名付けた。
さて、そのようなわけで、「6月から11月にかけ毎日西瓜を食べること。」それが高度資本主義社会に生きる彼の存在理由レゼンデートルとなったのだ。人間とは分子の配列であり、人生とは西瓜にかぶりつく瞬間毎に獲得されるものだ。もちろん彼のそのような真理は「快楽主義者」の思想であり、それを追及するのなら彼は21世紀のディオゲネスになりきるより道はない。「それも悪くない」と思う。樽に住むのも楽しそうだ。しかし12月になると、状況が一変する。彼にはもう西瓜の供給がない。そうして嫌でも思い出すことになるのだ!「ここは、古代ギリシャではない。」彼は樽から顔を出し、辺りを慎重に見まわす。「6月から11月までが西瓜を食べるためにある」とするなら、「12月から5月は何のためにあるのか?」彼は樽から身体をだして、地図を持たずに世界をあるく。もちろんこの男は、まだ「愛」を知らない。彼はいま、垂直の崖の上に立っている。
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ひとつはっきりさせたい。私は資本主義を否定しているわけではないし、まして肯定しているわけでもない。これはただの「土壌」だ。その土壌で、米と野菜を作って海で魚を釣り、山で猪を狩って、裸体主義精神を守りながら好きな絵を好きなように描いて暮らせばよい、と主張するわけではないが勿論それを望むのならそうすれば良い。株式市場の中で「奪い合い」をしながら生きたいと望むならそうすれば良い。我々はみな自由なのだ。『多様性の祝祭』とは、なにもコーヒーだけに限った話ではない。それは『世界が世界であることの面白み』だ。それでは、私がここで「何を主張したいのか?」と問われると、そんなものがあれば初めからそれをストレートに主張すれば良いだけの話でそれが分からないからこうしてだらだらと文章を書いるのであり、その「書く」という行為そのものが唯一の目的だ。しかしここまで書いて、私はいま偶然にもひとつだけ主張らしき主張を発見した。それはすなわち、これまでだらだらと述べてきたような理由から、「当店での写真撮影はご遠慮ください」と言うことであり、この情報社会の中それを「禁止します」と言っては的外れだが、ついでにもうひとことだけ言わせていただくと、どうか、目の前にある一杯のコーヒーそのものを楽しみください。撮影が終わった後のコーヒーは、気の毒なほどに冷めて劣化している。

ものの終わりにひとつだけ質問を投げかけたい。
Q 我々にとって、一番大切な「情報」とは何か?
もちろん、答えそのものが世界の面白みだ。例えば、ドストエフスキー(ここで風呂上がりの犬を思い出してもらいたい)なら、こう言って身体をブルブル振わすのかもしれない。
答え、自分自身のこと。ブルブル