音楽に耳を傾けるという体験

2017.09.19
『嘔吐』という小説は、『実存は本質に先立つ』というサルトル自身の哲学を表現する試みとして、おそらく逆算で書かれた文学作品だろう。けして面白い話ではない(と思う)が、しかしそのなかでもひとつだけ面白い(と思う)シーンがある。
主人公のロカンタンは紙切れから石ころまで、日常にありふれた「物」を見たり触れたりすることで、「吐き気」を感じる。彼の日常は嘔吐感の連続だ。この「吐き気」がいったいどこからやってくるのか?解釈を欲することが小説を読む醍醐味だろう。しかしこれから長々とその話をするつもりはない。なんといってもつまらない話なのだ。個人的解釈を簡素に述べると、ロカンタンはあまりにも誠実な認識者であり、「人生には必然などなく、すべてが偶然で、不条理にみちたもの」だと感づいている。そして「意味や目的」といったものを基盤とするこの世界の日常の生活に、「吐き気」がするのだ。ロカンタンとは、ある意味「目覚めた者」なのである。サルトルの手によって、そう意図的に形造されたロカンタンだが、僕が面白いと思ったのは小説内の次のシーンだ。
ロカンタンはカフェに入り、コーヒーを飲みながら音楽に耳を傾ける。お気に入りのJAZZのアナログ・レコードを聴く時にだけ、吐き気は消える。【何物も、日常世界がはまりこんだあの時間から来るものは、音楽を中断させることができない。音楽は自分自身で、秩序にしたがって終息するだろう。私がこの美しい音を愛するのは、とりわけそのためだ。その声の豊かさのためでも悲しさのためでもない。それが無数の音符によって遠くから準備された出来事であり、しかも音符はこの出来事が生まれるために死んでいくのだから。】これこそ、芸術体験そのものだ。おそらくロカンタンは、偶然性に満ちたこの世界のなかで「音楽だけは必然性を持っている」ことを認識した。そしてロカンタンは、「自分も何かあのようなものを創造してみてはどうだろう?」と考えはじめようになる。それは混沌とした日常に自らひとつの秩序をもちこもうとする試みだ。ロカンタンは、決心する。「意味や目的などない人生のなかで、生き方を探そう」。そして『嘔吐』は、ロカンタンが自身の小説を書きはじめた場面で終わる。これはサルトル流のヒューマニズムであり、戦前に書かれたこの作品のなかに〝アンガジュマン〟という思想の芽生えがある。

 

さて個人的な話をすこしだけ。じつは僕はあまり音楽を聴かない。じつは僕が個人的に一番好きな「音」は「無音」だ。モーツァルト、シューベルト、ショパン、シューマン、メンデルスゾーン、リスト、サティ、クラシックは、たまに聴く。しかしそれも車を運転しながら、掃除をしながら、料理を作りながら、本を読みながら、なにかを書きながらといった状況での音楽だ。僕は日常生活で、音楽そのものに耳を傾けるという時間をもたない。いやもたなかったと、過去形で述べるべきだろう。なぜなら数年前に坂口さんが”GOOD NEIGHBORS’ MUSIC VENDOR”という企画でイノベートにアナログ・レコードを持ちこんでから、僕の音楽に対する認識が変わったからだ。デジタル配信が主流となる現代で、アナログ・レコードから流れる「音」は、なんだか自然そのもののような響きがする。僕はいまたまに、コーヒーを飲みながら音楽そのものに耳を傾けるという時間をもつ。こう言ってはおおげさに聞こえるだろうが、アナログ・レコードから流れる「音」を聴いていると、身体を構成する60兆の細胞が反応し、分裂し、複製し、なんだか自分が「再生」され、「変身」したような気分になるのだ。
ピアノや、トランペットや、ドラムや、ベースといった楽器から発生する小さな波は複雑に織り合わさって大きな波となり、スピーカから流れ出る。人間の耳が波をキャッチし、それが鼓膜という器官に抽入されると音となって脳に抽出され、音楽という幻聴となる。〝音楽は人間細胞に鳴り響く〟

音楽とは、身体に染み込むものなのかもしれない。かつてロカンタンがそうであったように。かつて肉体労働後の僕の身体にペギーリーのブラック・コーヒーが染み込んだように。とくにJAZZという音楽は、外部から内部に浸透するものなのかもしれない。
ロカンタンは、外部にある「物」が内部に侵入することで「吐き気」を感じた。「吐き気」とは「呆れ」や「怒り」よりもっと根源的な、身体の底から込み上げる「身体反応」だ。
現代の民主主義、あるいは資本主義社会に生きる僕たちの日常にこそ、「吐き気」を感じる瞬間はないだろうか?例えば右手のスマート・フォン。例えば原子力発電所におけるこの街のパースペクティブ。慌ただしい日常のなかで時間を設け、情報を遮断し、「音楽に耳を傾ける」という行為はなにかとても豊かな体験なのかもしれないと、僕はいまさらながらに思う。
今回の企画が成功したら、例えばこのような時間を設けようと思っている。

『門』@COFFEEINNOVATE~Friday Night営業(フルパワー・タイム)

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2017.09.13
西駅の改札を出て市電の線路沿いをぶらぶら歩いていると、円形の細長いビルが見えてくる。ビルの下に立ち、上を見上げる。薄っすら蔦に覆われたビル側面に『珈琲 門』というおおきな看板が取り付けてある。僕は中に入って、コーヒーを注文する。店の内装は特徴的な外装と同じように、ある特定の時代を感じさせる雰囲気がある。奥の壁には年代物のスピーカーが吊るしてあり、そこからヘレン・メリルの「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」のCDが程よい音量で流れている。カウンターに座る僕の目の前で、白髪にのっぺりした口髭を生やしたマスターが、僕の注文したサイフォン・コーヒーを淹れてくれる。ロートの内のコーヒーに湯が浸透し、それを竹ベラでぐるぐる攪拌する作業越しにマスターの眼を覗くと、そこに特定のポリシーというかモットーというか、なにか「根本方針」みたいなものを、僕は感じ取る。当然ティーン・エージャーで青二才の「あの頃の僕」は、話しかけられずにいる。まさに『門』という雰囲気のあるマスターだな、そう思う。これは後ほど知ったことだが、門のマスターは常連客から『門スター』という愛称で呼ばれ、慕われていた。僕が最初に感じ取った印象も案外的外れではなかったのかもしれない。ところで、『門』という店名の由来は、漱石だろうか?いやあるいは…そんなことを考えているうちに、僕のコーヒーがやってきた。煙草に火をつけ、考えを頭の隅に追いやり、「ニューヨークのため息」に耳を傾けコーヒーを飲む。
いま僕は、自分で淹れたサイフォン・コーヒーを飲みながら、この文章を書いている。ロートからフラスコへ吸い込まれていくコーヒーの液のように、僕の記憶も抽出され、ひとつ思い出す。僕はその頃、JAZZに出会ったのだ。多分10代の終わりにかけて。僕はパート・タイムで、深夜に荷物の仕分け作業をこなしていた。午前3時に仕事が終わり、眠気と、くたくたに疲れた体で車に乗ってエンジンをかけた瞬間FMラジオから流れてきた音楽が、JAZZだった。僕ははっきり覚えている。それはペギー・リーの、「ブラック・コーヒー」だ。サラ・ヴォーンでも、ジュリー・ロンドンでもなく、ペギー・リーの、スロウなテンポだった。間違いない。そしてちょうどその時期、僕はたまたま『門』に入って、ヘレン・メリルを聴いた。これは多分たしかな記憶だ。
しかしその日以来、僕が『門』に足を運ぶことはなかった。落ち着いた空間に美味しいコーヒー、心地よい音楽を味わえる店だとは思った。しかしまぁ正直な話、それ以外でとくに特徴を感じるような店ではなかった。そもそもあの頃の僕にとって、コーヒーやコーヒー・ブレイクといったものは、ほとんどかっこつける為だけにする背伸び行為だったのだ。

 

 今年の夏のはじめに、坂口さんから『門』の話を聞いた。『門』という単語が出た瞬間僕は記憶をたどったが、坂口さんの話にはまだ続きがあった。なんと『門』には2Fがあり、そこに4000枚のLPレコードと巨大なALTECのスピーカー、真空管アンプのサウンド・セットを用いて、金曜の夜にだけマスターが好きなJAZZをフル・パワーでかけまくっているとうのだ。「今度一緒に行ってみないか?」と言われ、僕は出掛けた。そうして僕は『門』の本当の姿を知ることになる。この店の真のキャパ・シティーは、金曜の夜にあったのだ。店は20:00の開店と同時に街のJAZZ好きが押し寄せ、あっという間に超満員になった。マスターも常連客と陽気に話をしている。なんだ、ぜんぜん難しい人じゃなさそうだ。話しかけてみると、次々に面白い話を聞かせてくれる。僕が知ることのない60,70,80年代の街の文化的記憶、店の歴史、JAZZの歴史、驚いたことに、マスター達『鹿児島モダンジャズの会』は、鹿児島にヘレン・メリルを呼んでいた。さらに同会が発行していた『MODERNPALS』というリトルマガジンを読ませてもらっていると、『風の歌を聴け』でデビューした直後の村上春樹の寄稿を発見する。なんてディープな活動だ…もともと、1Fが喫茶で2FがBARというスタイルで40年に渡り営業してきた『門』は、現在は御夫婦の高齢ということもあり、金曜の夜にだけひっそりと2Fを開けているとのことだった。そしてじつは、2020年に向けた鹿児島中央駅エリアの再開発により、すでに建物の取り壊しが決まっているという。店は9月いっぱいで閉店し、今後継続することは考えていないようだ。そこで坂口さんから、提案があった。「マスター個人の審美眼によって選ばれたレコード・コレクションは貴重な文化的資産。この街で、40年に渡って積み重ねられてきた歴史的文化資産がばらばらに解体され、無きものとなるのは勿体ない。街のみんなが楽しめるミュージック・ライブラリーとして機能出来るように、サウンド・システムとライブラリーをまるごと譲り受け、イノベートに移設して、継続できないか?誰もが気軽にアクセスできるように、未来へ向け解放できないか?」と。えらい話である。あーえらいこっちゃ、えらいこっちゃ。しかし坂口さんの行動には、もちろん共感できる。損得より衝動で、自然と動く人なのだ。〝トリガー・エフェクト〟という言葉がある。ある個人の衝動や行動に周りが影響を受け、それが反響し、波紋となって差し響き、なにかの形をつくる。僕に「街のこと」を考えるようなキャパ・シティーはないが、僕は僕個人として、生まれて死ぬまでにある時間と空間に現れる事物にその場で反応し、ヴィジョンもなにもなく、ただ僕の人生を僕なりに歩いている。そうして店をはじめ、人に出会う。坂口さんに出合い、今回のことでマスターに出会った。偶然でしかない人生のワンシーンで今回の話を聞いた時に、答えはすぐに出た。それは僕のなかでは企画どうこうというより、偶然で不思議な人との出会いと関りの連鎖からやってくる、あるがままの自然な回答だ。多分このような感覚のことを、人は「直感」と呼ぶのだろう。もちろん返事はこうだ、「やりましょう!」
マスターに話をしに行くと、どうやら他にも引き取り先の話しはあるようだ。しかし君たちに譲るよ!言ってくれた。どうやらこちらの意図することにも共感して頂いているようだ。さぁいよいよ本格的な話になってきた!ALTEC巨大なスピーカーを搬出する為にはビルの壁を壊し、クレーンでおろす必要がある。イノベートの店内にレコードを収納する棚を作る必要がある(レコードは数トン単位の重さになる)。セメントを流してスピーカーを設置する台を作ったり、搬入搬出時の作業人員、サウンド・システムのチューニング、メンテナンス費用、マスターのレコード・コレクションに関しては、買い取るというよりまるごとお借りするという感覚だがもちろんすこしでも多くお渡ししたい。残った問題は「誰が、どのように、費用を負担するか?」ということだけだ。それが〝トリガー・エフェクト〟の引き金音が聴こえた「なにかの形」を望む個人の自発的自由意志だったら素晴らしい。そういった経緯で、今回クラウド・ファンディングで資金を募ることとなった。サイトを見てみると、レコード・キープなどのリターンがある。【街のミュージック・ライブラリー】に、あなたも参加しませんか?
クラウド・フェンディングの申込先はこちらからからお願いします!

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