これから戦争に向かう僕へ

2017.12.13
「認識は体験により変わる、それほど確かな知識などあるだろうか?」僕はマーティン・スコセッシの映画を観た後、遠藤周作の『沈黙』を再読し、認識した。「この話は、学生が社会に出て、自分の認識を獲得するという青春小説だ」すこし大胆に、そう公言したい。

 

ある日、イエズス会が日本に派遣していたフェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ棄教を誓ったというニュースが、ローマ教会にもたらされる。日本に20年間潜伏し、司祭と信者を統率して布教を続けた長老フェレイラが、たとえどんな拷問をうけたにせよ、教会を捨て異教徒に屈服したとはローマ教会では、思えない。とくにかつて神学校でフェレイラ師の「学生」であったロドリゴは、「先生」が「教科書」の教えを捨て、異教徒の前に屈服したとは、信じられない。また、フランシスコ・ザビエル以来種のまかれた日本で統率者を失い、挫けだしている信者たちを見捨てることもできない。ロドリゴは使命を果たすため日本に渡り、ことの真相をその眼でつきとめることにした。物語はドラマチックな歴史小説のようにはじまる。

 

マカオで出会った軟弱な日本人キチジローの案内で日本に潜伏したロドリゴは、隠れキリシタンたちに歓迎される。彼らにとってロドリゴは、希望そのものだった。しかしこの物語は終始不吉な予感に包まれている。キリシタンたちは当然のように幕府に捉えられ、拷問され、処刑される。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」するのみだった。
ここで「沈黙」している神は、おそらく「デウス」だろう。この物語には3つ神の概念があると、僕は思う。物語で終始「沈黙」しているのは、三位一体の父なる神「デウス」だ。そして子なる神「キリスト」これはロドリゴが学校で教わり信じる神。最後に「人間イエス」ロドリゴは体験によりこの神を「概念」ではなく「観念」として、自らの内に捉え認識を獲得した。これからその話をはじめよう。

 

キチジローの裏切りで密告され、長崎奉行所に捉えられたロドリゴのまえに、かつて自身もキリスト教信者であったという井上筑後守が現れ、2人の対話がはじまる。論点は「日本人にとってキリスト教は意味を持つのか?」ザビエル以来この国で、このような数多くの論争が実際に繰り広げられてきたのであろう。言葉のやりとりをするうち、ロドリゴは思い出す。日本人は教えそのものより、十字架や数珠など「目に見えるもの」を欲しがり、それを偶像化し崇拝した。自分が伝えようとしていることとは、何かが違う。ロドリゴはどこかで引っかかりを感じていた。そんなロドリゴの前に、フェレイラが現れる。棄教し、仏教に改宗したかつての師の姿にロドリゴは魂のぬけた生きものを見るような憐れみを感じるが、かつて神学校で神学生の敬愛を受けていたフェレイラ先生は、人生を歩きながら認識を獲得したのだ。フェレイラは言う、「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろう。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地にキリスト教という苗を植えてしまった。」
ロドリゴは反論する「その苗がのび、葉をひろげた時期もありました。」
「いつ?」
「あなたがこの国にこられた頃、教会がこの国のいたるところに建てられ、信仰が朝の新鮮な花のように匂い、数多い日本人がヨルダン河に集まるユダヤ人のように争って洗礼をうけた頃です。」
「だが日本人がその時信仰したものがキリスト教の教える神でなかったとすれば?」
ロドリゴは、フェレイラの言葉に怒りを感じる。敗北したものは弁解するためにどんな自己欺瞞でも作りあげていくのだ。「あなたは、否定してはならないものまで否定しようとされている!」
「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も、日本人は勝手に大日とよぶ信仰に変え、別のものを作りあげたのだ。日本人はキリストの神ではなく、彼らが屈折させたものを信じていた。日本人はこれまで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。お前たちは布教の表面だけを見て、その本質を考えていない。」その言葉は、動かしがたい岩のような重みでロドリゴの胸にのしかかってきた。それは彼が子供のころ、神は存在するとはじめて教えられた時のような重力を持っていた。
彼は人々のために死のうとしてこの国に来たが、事実は日本人の信徒たちが自分のために次々と死んでいった。どうすれば良いのか、わからない。行為とは、今日まで教義で学んできたように、これが正、これが邪、これが善、これが悪というように、はっきりと区別できるものではなかった。神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。
フェレイラは続ける、「日本人は人間と隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。日本人は人間を美化したり、拡張したものを神と呼ぶ。」
この言葉に、僕も個人的記憶をたどる。5年前まで長女が通っていた近所のカトリック幼稚園では「なぜか?」聖母マリアを偶像崇拝していた。きっと日本人はあのような「優しいイメージ」が好きなのだろう。家族で上野原縄文の森に遊びに行ったある日の記憶を思い浮かべた。僕は《地層監察館》という建物で2万年に渡り積み上げられた地層を見て、「これこそ日本の歴史そのものだ!」と直感した。外から主義を取り入れ、オリジナルにアレンジし積み上げたのもが日本の歴史だ。だから日本には日本発信の思想がない。信長や秀吉や家康は「天下統一」を目指したが、「国家とは何か?」という定義を持てなかった。まるで動物園の猿山で目にするような知性ない喧嘩だが、その猿山を、外から理性的に眺める目があった。江戸時代の終わりにかけ、外の目に気付いた猿が現れ猿山に革命がおこる。それが明治維新以後の『日本近代化』だ。しかし、日本人には思想がない。そこでもやはり「国家とは何か?」という定義がなさていない。卑弥呼や天草四郎になら、思想があったかもしれない。しかしそれらは虚構の歴史とされている。天草四郎と言えば、『沈黙』の舞台設定は島原の乱が鎮圧されて間もないころ。ということは、1640年頃だろうか。そのころ西洋では三十年戦争の真只中。ウエストファリア条約が結ばれ、主権国家体制となり、国民国家という概念が生まれ、ナショナリズムが生まれたころ。丸山眞男の、『超国家主義の論理と心理』という短く凝縮された素晴らしい論文がある。その争点は日本の戦争責任論。明治維新後に日本ナショナリズムが天皇制の元ウルトラ化し、ファシズム化した特殊思想の解明に取り組んだものだ。そこに面白いことが書いてある。【ヨーロッパの近代国家は中性国家たることに一つの大きな特色がある。それは真理や道徳などの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)或は個人の良心に委ね、国家主権の基礎を内容的価値から切り捨てた純粋な法の上に置いてあるのである。】西洋の近代国家は、宗教改革につづく宗教戦争のなかで成長し、思想や道徳の問題は「私事」として主観的内面性が保証された。ところが、と丸山は続ける。【日本は明治以後の近代国家の形成過程におき、このような国家主権の中立的価値を表明しようとしなかったため、権威は権力と一体化した。そこに内面的世界の支配を主張する教会的勢力は存在しなかった。やがて台頭した自由民権運動も、真理や正義の内容的価値の決定を争ったのではなく、もっぱら国民の外部的活動の範囲と境界をめぐる争いだった。】この、「近代人の道徳の内面化」という問題を扱う文学者が夏目漱石だ。きっと漱石はルソーの社会契約論、ジョンスチュワート・ミルの自由論などを熱心に読み、イギリス留学を体験して、自らの時代に問題を発したのだろう。だから漱石を読むことは(それがけして面白い話じゃなくても)面白い。日本人が「個人」という概念を得て「思想らしきもの」をもてるようになったのもこのころから。『明治維新』という土壌に、夏目漱石という芽が出、福沢諭吉という芽が出、西田幾多郎という芽が出た。ちなみにわが街のスーパー・ヒーロー『西郷隆盛』には、残念ながら鼻糞ほどの思想もない。
余談序に、丸山の文章の最後の部分をもう一度抽出し、現在の問題に抽入したい。―やがて台頭した自由民権運動も、真理や正義の内容的価値の決定を争ったのではなく、もっぱら国民の外部的活動の範囲と境界をめぐる争いだった―この問題こそ、現代の問題だ。何の?もちろん、憲法9条の問題だ。議会(そしてデモクラシー!)では右も左も、問題の本質を理解している者が見当たらない。あらゆる矛盾が含まれる憲法9条という言葉。この憲法9条の問題とは、創造の問題だ。未だ戦争責任論ひとつ示せない『日本国民』という民族に、僕は確信をもてない。だから憲法改正には反対する。歴史の本質がその時代を生きた人間精神の弁証法的イデオロギー闘争だとするなら、テーゼもアンチテーゼも提示できないこの国の歴史は終わった。この国には創造者が居ない。これが問題の本質だ。

 

そろそろ『沈黙』の話しに戻ろう。物語はクライマックスに向けて進んでいく。
聖書のなかで、キリストがユダにむかって言った言葉、「去れ、行きて汝のなすことをなせ」は劇的シーンだが、ロドリゴは司祭になってからも、この言葉の意味がよく掴めないでいた。いかなる感情で、キリストは銀三十枚のために自分を売った男に「去れ」と言ったのだろう。怒りと、憎しみのためか。それともそれは愛から出た言葉か?キリストはユダさえも救おうとした。
ロドリゴが捉えられる奉行所の門の前では、銀三百枚でロドリゴを裏切ったキチジローが泣き叫び、許しを請っている。ロドリゴはそんなキチジローの姿に軽蔑しか感じない。このシーンではっきり分かる。この物語は入れものとして、そのまま聖書のパロディーになっている。もちろんロドリゴがキリストで、キチジローがユダだ。つまり遠藤はロドリゴにイエスの人生を投影している。しかしこの物語をそれだけで解釈するのは勿体ない。もっと色々な角度から省察してみよう。
「キチジローは悪い人間なのだろうか?」映画でキチジローの役を演じた窪塚洋介は、情けないくらい踏み絵を何度も踏みまくる。過去の回想シーンでは、家族みんなが踏み絵を拒み生きたまま焼かれるなか、その様子を眺める、踏み絵を踏んだキチジローの姿があった。映画の冒頭でロドリゴとマカオで出会ったキチジローは、酷く酔っていた。この男は、損なわれた人間のだ。キチジローという男の特徴はなによりもまずその「弱さ」にある。ロドリゴはキチジローの姿を見て思う。人間は生まれながらに二種類ある。強いものと弱いものと。強者はこのような迫害の時代にも信仰のため炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように、山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏み絵を踏んでいたかもしれぬ。やがてキチジローへの恨みは消えてく。神がいるとしたら、本当に救わなくてはいけないのはキチジローのような人間なのかもしれない。
だが、「去れ、行きて汝のなすことをなせ」この言葉の意味が分からない。言葉だけではなく、あの人の人生におけるユダの役割というものが、よく分からない。あの人はなぜ、やがて自分を裏切る男を弟子に加えたのか?ユダの本心を知り尽くしていて、どうして知らぬ顔をされていたのか?それはまるで、ユダがあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。それらの疑問は神学校のときも司祭になってからも、沼にうかんでくるどす汚い水泡のように意識に浮かびあがってきた。そのたびごとに彼はまるでその水泡が彼の信仰に影を落とすもののように考えまいとした。だが今は、もう追い払うことのない切実さで迫ってきている。
僕は2時間半の映画を観ながら考えていた。例えばこういう状況で「お前なら踏むか?」と。答えは言うまでもなく…

 

いよいよクライマックス・シーンだ。神の殉教を期待して牢につながれたロドリゴに、夜半フェレイラが語りかける。説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、「穴刷り」にされ、拷問されている信者の声であり、その信者たちはすでに棄教を誓っているが、ロドリゴが棄教しない限り許されないのだと告げる。自分の信仰を守るのか?自らの棄教という犠牲によってイエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか?究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知る。
「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。ここに入れられ耳にしたあの声に、神がなにひとつなさらなかったからだ。」
「あなたは…」ロドリゴは泣くような声で言った、「祈るべきだったのに。」
「祈ったとも。わしは祈りつづけた。だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。あの男たちの耳のうしろには小さな穴があけられている。その穴と鼻と口からの血が少しずつ流れだしてくる。その苦しみをわしは自分の身体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない。」
主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙ってはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを明示するために、この地上の人間たちに何かを言わねばいけない「…あの人たちは、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びをえるでしょう。」
「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない。お前は彼等より、自分が大事なのだろう。すくなくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいのだ。」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「…わしだってそうだった。あの真っ暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭はキリストにならって生きようと言う。もしここにキリストがいられたら…」フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。「たしかにキリストは、彼らのために、転んだだろう。」
「そんなことはない。」
「キリストは転んだ。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても。」
「さあ。」フェレイラはロドリゴの肩にやさしく手をかけて言った、「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ。」ロドリゴはよろめきながら、足をひきずった。重い鉛の足枷をつけらたように一歩一歩、歩いていく彼をフェレイラが後ろから押す。「協会よりも、布教よりも、もっと大きなものがある。お前が今やろうとするものは…」踏み絵は今、彼の足もとにあった。この世で最も美しいものとなって私の心に生きてきたもの。それを、今、私はこの足で踏もうとする。
「ああ。」とロドリゴは震えた。「痛い。」
「形だけ踏めばよいことだ。」
ロドリゴは足をあげた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたものを、踏む。この足の痛み…その時、「踏むがいい」と銅版のあの人はロドリゴにむかい言った。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」司祭は踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いていた。

 

最後にロドリゴにむかい語ったものこそ「人間イエス」だと、僕は思う。イエスという人間は、自由な認識者として生き、一切の決まりごとを認めなかった。イエスという人間は強烈な思想家で、革命家で、アナーキストで、アウトサイダーだ。時代に反抗し続けることで崩壊寸前となった精神が内部にいくつかの人格を創り出し、幻想を見せることによってぎりぎりの状態で精神を保った。あたかもイエスの声を聞いたロドリゴのように。そのようなキリスト像を、僕は個人的に思い描いている。けっきょく神や宗教といったものは、個人的な体験なのだ。世界は認識である。愛すべき狂人、イエスという「たった一人のキリスト教徒」の思想を、ペテロとパウロが利用し、「キリスト教」をつくった。司祭に思想はない。司祭はイエスの思想を「予言者」として編集し、そこに「善悪という道徳」をつくり、宗教という「システム」を構築して民衆の人間精神を1000年以上支配した。これはマルクスとスターリンの関係、ヒットラーとドイツ国民、そして、未だ天皇制ファシズムに陥りつづける日本国民も同じだ。「思想」という言葉を、いまでは誰もが使いすぎる。ひとつの思想をもつということは、ひとつの狂気をもつこと。僕たちはこんな時代にこそ、一億人の思想をもちたい。

 

遠藤周作は『沈黙』のなかで自らの思想を示し、ローマ・カトリックを批判した。思想をもたぬ司祭は日本をキリスト教国にする夢を見て死をも辞さぬ覚悟でやってきたが、現実に巻き添えをくったのは、司祭を慕う貧しい農民信者たちだった。ロドリゴは現実に対する絶望のなかで、弱さを認め、教会で教えられる神とは別の形で、自らの内に神を創造した。
―自分が闘ったのは築後守を中心とする日本ではなかった。自分が闘ったのは、自分自身の信仰にたいしてだった。聖職者たちはこの冒涜行為を責めるだろうが、自分は彼らを裏切っても、あの人を決して裏切っていない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がこの愛を知るためには、今日までのすべてが必要だった。あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生が、あの人について語っていた。―
今では自由に話されることだ。イエズス会とは、信仰による植民地化をはかる戦闘集団だ。しかし宗教の本質とは、権威による布告などではなく、信仰者それぞれの個人体験による認識によって決められるのだという遠藤の声を、僕は感じずにはいられない。信仰とは、けして形式をもつものではない。
キルケゴールの『死に至る病』という書物に、ロドリゴが見出した神の概念が詳しく書いてある。合わせて読むと面白い。

 

「日本人とはいかなる人間か?」これが遠藤の小説に一貫しているテーマだ。例えば、沈黙から8年前の作品で、太平洋戦争中に捕虜となった米兵を臨床実験として使用した「九州大学生体解剖事件」を題材とした『海と毒薬』に登場する医師は、どこにでもいる標準的日本人だ。アメリカ軍捕虜の人体実験に関わる医師は、良心の呵責を感じながらも、誰にでもあるような人生の「偶然」のタイミングで人体実験に参加を呼びかけられ、反発もせずに関わってしまう。
実験前、戸田医師は勝呂医師に問う。「神というものはあるのかな?」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、人間は自分を押し流す運命から、どうしても脱れられんやろ。そうゆうものから自由にしてくれるものを神と呼ぶならばや。」
実験後、勝呂は戸田に問う。「俺たち、いつか罰をうけるやろ。」
「罰って世間の罰か。世間の罰じゃなにも変わらんぜ。俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったか分からんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもんや。」
この二人には、個人的倫理に基づく行動原理が存在しない。集団心理や同調圧力に負け、平凡な人格の持ち主がなんとなく非道に転じてしまう。日本人は結局、集団として現世に不利益と思えば考そのものを大きく変更しても構わない。この原理は日本人にとってあらゆる原理より強い。これが『罪と罰』のラスコーリニコフなら、偶然の系列で世間と異なる場所に見出した神の前に立ち、自らに罰を課すだろう。『ペスト』のリュー医師なら、どんな運命に対しても反抗し続けるだろう。日本人の遠藤周作は「神なき日本人の罪の意識」を書く。そしてこれは、これからの話しなのだ。

 

丸山眞男が指摘するように、権威が権力と一体化し、近代化した日本で、いま話題の「教育勅語」がつくられた。その目的は上からの原理の押し付けであり、考えることができない人間をつくることにある。そしてそれは戦後民主主義化での教育でも、ほとんど同じ原理だ。長友学園問題は、驚くことではない。あれは今この国でなされている教育そのものの姿を写す鏡だ。それがあのように分かりやすく現れるか、巧妙に隠されているのかだけの違い。来年から小学校で「道徳教育」が正式な教科として大戦前以来復活するという。これから「逆コース」の「逆コース」がはじまる。最近テレビで『日本一頭の良い小学生選手権』みたいなクイズ番組がよく放送されている。あれは僕には、イデオロギー形成のためのプロパガンダにしか見えない。日本の義務教育は問題に頭を使う人間を育てるのではなく、何でも知っている人間を仕立て上げる。子供が一生懸命勉強し、テストで良い点をとること、それは本人が自発的にそれを望み自己実現するのなら、素晴らしいことかもしれない。しかしそのような場合でも、まともな大人なら子供に釘を刺す必要がある。テストで良い点を取ること。それが目的となり、それ自体に頭を向ければ向けるほど、頭はどんどん悪くなるのだと。あの、『日本一頭の良い小学生決定戦』に出場し大衆に面をさらすエゴイズム被害者たちは痛々しくも日本一頭の悪い小学生なのだ。
ドイツという国は、分かりやすいかたちで『ヒトラー』という象徴があった為にそれを教育に活かした。若い2人が結婚し、家族という国家形成の最小単位を持つと同時に一家に一冊、『我が闘争』がプレゼントされるらしい。ドイツの教育理念は「たとえクラスで1人になっても、最後まで自分の意見を貫き通すこと」だそうだ。けして第二のアイヒマンをつくってはならない。頭の良い人間(自分でものを考えられる人間)とは、自ら問題を発っすることのできる人間のことだ。そして日本の義務教育は、この人間をつくらない。なぜか?自分で考えることのできる人間は、国家にとって都合が悪いから。

 

「国家とは、あらゆる冷ややかな怪物のなかで、最も冷ややかなものである。それはまた冷ややかに嘘をつく。」ツァラアツゥストラはこう言った。

 

国家とは、ビック・ブラザーだ。第三次大戦後の世界を設定したジョージ・オーウェルの『一九八四年』がいまアメリカで、ヨーロッパで、日本で、世界中で読まれている。なぜか?理由は簡単だ。いまの世界が、半世紀以上前にオーウェルが描いた世界に類似的だから。
《イングソック》というイングランド社会主義の元《テレスクリーン》という双方向性テレビジョンにより監視させる国民たち。これは現代のテレビやインターネットのこと。そのなかで国民は《二分間憎悪》という儀式でガス抜きをする。これはベッキー不倫騒動みたいなワイドショーネタ。《ダブルシンク》とは、例えば倫理的に過ちを認めながらも稼働を続ける原子力発電所のようなもの。ハヤカワ文庫新訳版でトマス・ピンチョンが書く《ダブルシンク》に関する解説を大きな声で読み上げたい。【結局、多くの問題に対して態度を決めずに少なくとも二つの見解を持つことが、現在の超大国における政治思想の状況ではないだろうか。言うまでもなく、その地位に、可能であれば永久に、留まりたいと望む権力者にとって、これは計り知れないメリットがある。】
この物語の主役であり、党のプロパガンダをつくる真理省の役人であるウィンストン・スミスの仕事は《歴史改ざん》。これは「南京大虐殺」を改ざんする現代の教科書のように日々普通に行われていること。そしてこの手法は、そのまま《ニュースピーク》に繋がる。思考の幅を減らし、単純化させるために「言語」を減らす。例えば、「良い」の反対語「悪い」をなくし、「非良い」とする。「素晴らしい」や「美しい」などの同義語もなくし、すべて「超良い」とするような新語法をつくる。すると思考の幅がどんどん狭く浅くなり、反政府的な思想は諸滅させられる。するとある日ビック・ブラザーが2+2=5だと言えば、2+2=5となるのだ。さすがにこれは、小説のなかだけの話しだろうか?僕にはとてもそうは思えない。最も、物質的に豊かな現代人は能動的にそれを行なっている節があるのだが…
これから僕たち「日本人の大人」は、思想を身につけなければならないと僕は思う。今からでもおそくない。ひとつの狂気を身につけたい。
考えてみれば、人間なんて、本人がそれを望む望まぬとに関わらず、偶然この世界に産み落とされ、不条理に死んでいくだけの存在だ。
そして生と死の間にある人生ですら、運命に翻弄される。これから僕たちの運命が、やってくる。
しかしそのなかでも、選べるものがあるはずだ。
アウシュヴィッツに収容されたフランクルは『夜と霧』のなかで書く。
「どんな運命にあろうとも、与えられた事態に対してどういう態度をとるかは、誰にも奪えない、人間の最後の自由である。」
最後に、この文章は全て個人的な読書感想文のようなものだ。メリー・クリスマス!よいお年をお迎えください。

必然の音楽《門プロジェクト報告と今後の営業案内》

2017.12.12
クラウド・ファンディングでの資金調達(目標額クリア!)移設、設置、試聴会、ファンディング・リターンと一通りの過程を終えて、ほっと一息。年明けには『モンスター・ナイト』なる金曜夜の営業も始まる。
今回のには誰かの意思などなく、どこからともなく聴こえた「声」をキャッチした者が選択することにより拡がった音楽。そこにひとつの流れが生まれ、偶然の系譜で鳴り響いた。「まさに偶然の音楽」などとセンチメンタルに浸って試聴会でジェリー・マリガンを聴いていると肩をちょんちょんと叩かれ、ハマケンあれ見て!あの時計、あれにNEW GATEってかいてある!と坂口さんが言うので、アンプ棚の、上を、見上げると、7年前どっかの家具屋で偶然買った時計にたしかにNEW GATE(新しい門)とかいてある。ほんとーにもうっ!人生ってやつは、へ、へ、へ!偶然なんだからさ!と感づくがいやいやそうじゃなくってこれはもう、は、は、は!必然でしたね!と2秒後に笑い答えていた。

 

さてさて今回の出来事で、僕も個人を超えた個人的行いを行うこととなり、コーヒーイノベートの中に《門プロジェクト》という共有化された保有物が置かれることとなった。選択には責任が伴うもので、ここでコーヒーイノベート責任をひとつ宣言しておきたい。
①これまで通り店の営業を続け「音声」を「未来」に向かって開放し続けること。
②門の意思を受け継ぐ形で、金曜夜に営業すること。
①は言うまでもなく、②は門が閉店する間際数ヶ月店に通い感じたこと。
コーヒーイノベートは今後このように役割を果たしていく。
ということで、来年から営業時間を改めまして。
月曜~金曜 8:00~17:00 レコード・タイム13:00~16:00
金曜夜   20:00~0:00 レコード・タイム
土・日・祝 貸切り営業(パーティー、2次会、イベント等で、コーヒーイノベートの空間を活用しませんか?1時間8,000円~メールにてお気軽にお問い合わせください。)
※音をつくるために用いる真空管アンプやプレイヤーは門で40年以上前からは使用している繊細な機械な為、消耗を配慮し、平日は13:00~16:00のみレコードをかけます。それ以外の時間はCDをアルティックのスピーカーから流し営業いたします。
※モンスター・ナイトは毎週金曜の夜に開催します。
 ビール、ウィスキー、焼酎、ワイン、アイリッシュコーヒー等のアルコールメニュー、簡単なつまみも用意していますが、香りが強くないものなど良識の範囲内であれば持ち込もOK!
 門のマスターも気の向くままに立ち寄り、レコードをまわしてくれます。
 1月5日~20:00スタート!
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