セロニアス・モンクが分かる、ということについて。

2018.01.16

ぼくにはセロニアス・モンクが分かる。ある音を聴き、蘇る記憶の過去へ繋がる一本道のようによく分かる。ところでなんだろう?その「分かる」ということは。

 モンクのピアノは文句なく美しい。だがモンクの音楽を聴くという行為は、けして心地よい体験ではない。モンクの文句なく美しいメロディーライン、その音符の系譜に浸っているとソレはやってくる。はじめてソノ音を聴いた時には自身の耳を疑うだろう。いまのアレはなにかの間違いか?しかしソレは徐々にその存在を現わし、聴く者の不安をかきたて、何時の間にやら身体の内へ進入し、響きはじめる。人間の皮膚下にある意識、自意識、自我なんてものの下にある層、思想なんて通り越し、魂、霊的なものを貫き、人間存在の奥底にある宇宙まで響く音楽。そこまで言うと、もちろん大袈裟だ。しかしそんな内在の宇宙を感じさせる危うく美しい音が、セロニアス・モンクの音楽だ。

 それがぼくにとって、モンクが「分かる」ということ。これまでJAZZをほとんど聴く機会もなく、モンクを真剣に聴きはじめて2週間のぼくにも、モンクが分かる。文句なく分かる。ところで、エピソードをひとつ。-ぼくは『門』から『イノベート』にレコードを移設する為の箱詰め作業の一枚目に、偶然モンクのレコードを手にした。ジャケットを見て驚いた。ジョルジョ・デ・キリコだ。モンクはキリコに会いジャケットを依頼したのだろうか?モンクとはどんな人物なのだろう?ようし移設が終ったら、先ずはモンクから真剣に聴いてやるゾ!-そうして≪門プロジェクト≫もひと段落し年が明け2週間、モンクを聴き続けている。つまり最初にそのような経緯があり、するとぼくは、おそらくモンクの音楽を無意識のうちでキリコの抽象絵画的なものに結びつけている。さらに結びの糸はランボーの詩、アンドレ・ブルトンのオートマティスに繋がり、クラシック・ピアニストのエリック・サティに結びついた。ぼくにとってセロニアス・モンクとはもう一人のシュルレアリストだ。モンクとシュルレアリスムを結びつける人など何処にもいないだろう。しかしぼくは、ぼくがモンクを聴くまでの経験と体験の記憶により主観的に解釈され、そのように分かる。ぼくには分かる。ぼくだけに分かる。

 すると音楽なんてものは全て相対的であり、さらに瞬間という時間的なものでさえあると言えないだろうか。いまのぼくにマイルス・デイビスの良さは分からないが、それも分かる瞬間が来るかもしれない。なにかを切欠に、一気に解釈が進むかもしれない。そんな偶然の音楽に出会える場所が、金曜夜の≪門スター・ナイト≫だ。ここにやって来る大人たちは、絶対的なものを押し付けることをしない。難しいことも言わない。とにかく楽しい。ただ楽しい。JAZZに取りつかれた大人たちの主観と主観による多様性の拡大。そんな世界は平和で楽しい。だからぜひお気軽に、遊びに来てくださいネ!

 門スター・ナイト 毎週金曜20:00~0:00開催中