セロニアス・モンクが分かる、ということについて。

2018.01.16

ぼくにはセロニアス・モンクが分かる。ある音を聴き、蘇る記憶の過去へ繋がる一本道のようによく分かる。ところでなんだろう?その「分かる」ということは。

 モンクのピアノは文句なく美しい。だがモンクの音楽を聴くという行為は、けして心地よい体験ではない。モンクの文句なく美しいメロディーライン、その音符の系譜に浸っているとソレはやってくる。はじめてソノ音を聴いた時には自身の耳を疑うだろう。いまのアレはなにかの間違いか?しかしソレは徐々にその存在を現わし、聴く者の不安をかきたて、何時の間にやら身体の内へ進入し、響きはじめる。人間の皮膚下にある意識、自意識、自我なんてものの下にある層、思想なんて通り越し、魂、霊的なものを貫き、人間存在の奥底にある宇宙まで響く音楽。そこまで言うと、もちろん大袈裟だ。しかしそんな内在の宇宙を感じさせる危うく美しい音が、セロニアス・モンクの音楽だ。

 それがぼくにとって、モンクが「分かる」ということ。これまでJAZZをほとんど聴く機会もなく、モンクを真剣に聴きはじめて2週間のぼくにも、モンクが分かる。文句なく分かる。ところで、エピソードをひとつ。-ぼくは『門』から『イノベート』にレコードを移設する為の箱詰め作業の一枚目に、偶然モンクのレコードを手にした。ジャケットを見て驚いた。ジョルジョ・デ・キリコだ。モンクはキリコに会いジャケットを依頼したのだろうか?モンクとはどんな人物なのだろう?ようし移設が終ったら、先ずはモンクから真剣に聴いてやるゾ!-そうして≪門プロジェクト≫もひと段落し年が明け2週間、モンクを聴き続けている。つまり最初にそのような経緯があり、するとぼくは、おそらくモンクの音楽を無意識のうちでキリコの抽象絵画的なものに結びつけている。さらに結びの糸はランボーの詩、アンドレ・ブルトンのオートマティスに繋がり、クラシック・ピアニストのエリック・サティに結びついた。ぼくにとってセロニアス・モンクとはもう一人のシュルレアリストだ。モンクとシュルレアリスムを結びつける人など何処にもいないだろう。しかしぼくは、ぼくがモンクを聴くまでの経験と体験の記憶により主観的に解釈され、そのように分かる。ぼくには分かる。ぼくだけに分かる。

 すると音楽なんてものは全て相対的であり、さらに瞬間という時間的なものでさえあると言えないだろうか。いまのぼくにマイルス・デイビスの良さは分からないが、それも分かる瞬間が来るかもしれない。なにかを切欠に、一気に解釈が進むかもしれない。そんな偶然の音楽に出会える場所が、金曜夜の≪門スター・ナイト≫だ。ここにやって来る大人たちは、絶対的なものを押し付けることをしない。難しいことも言わない。とにかく楽しい。ただ楽しい。JAZZに取りつかれた大人たちの主観と主観による多様性の拡大。そんな世界は平和で楽しい。だからぜひお気軽に、遊びに来てくださいネ!

 門スター・ナイト 毎週金曜20:00~0:00開催中

これから戦争に向かう僕へ

2017.12.13
「認識は体験により変わる、それほど確かな知識などあるだろうか?」僕はマーティン・スコセッシの映画を観た後、遠藤周作の『沈黙』を再読し、認識した。「この話は、学生が社会に出て、自分の認識を獲得するという青春小説だ」すこし大胆に、そう公言したい。

 

ある日、イエズス会が日本に派遣していたフェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ棄教を誓ったというニュースが、ローマ教会にもたらされる。日本に20年間潜伏し、司祭と信者を統率して布教を続けた長老フェレイラが、たとえどんな拷問をうけたにせよ、教会を捨て異教徒に屈服したとはローマ教会では、思えない。とくにかつて神学校でフェレイラ師の「学生」であったロドリゴは、「先生」が「教科書」の教えを捨て、異教徒の前に屈服したとは、信じられない。また、フランシスコ・ザビエル以来種のまかれた日本で統率者を失い、挫けだしている信者たちを見捨てることもできない。ロドリゴは使命を果たすため日本に渡り、ことの真相をその眼でつきとめることにした。物語はドラマチックな歴史小説のようにはじまる。

 

マカオで出会った軟弱な日本人キチジローの案内で日本に潜伏したロドリゴは、隠れキリシタンたちに歓迎される。彼らにとってロドリゴは、希望そのものだった。しかしこの物語は終始不吉な予感に包まれている。キリシタンたちは当然のように幕府に捉えられ、拷問され、処刑される。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」するのみだった。
ここで「沈黙」している神は、おそらく「デウス」だろう。この物語には3つ神の概念があると、僕は思う。物語で終始「沈黙」しているのは、三位一体の父なる神「デウス」だ。そして子なる神「キリスト」これはロドリゴが学校で教わり信じる神。最後に「人間イエス」ロドリゴは体験によりこの神を「概念」ではなく「観念」として、自らの内に捉え認識を獲得した。これからその話をはじめよう。

 

キチジローの裏切りで密告され、長崎奉行所に捉えられたロドリゴのまえに、かつて自身もキリスト教信者であったという井上筑後守が現れ、2人の対話がはじまる。論点は「日本人にとってキリスト教は意味を持つのか?」ザビエル以来この国で、このような数多くの論争が実際に繰り広げられてきたのであろう。言葉のやりとりをするうち、ロドリゴは思い出す。日本人は教えそのものより、十字架や数珠など「目に見えるもの」を欲しがり、それを偶像化し崇拝した。自分が伝えようとしていることとは、何かが違う。ロドリゴはどこかで引っかかりを感じていた。そんなロドリゴの前に、フェレイラが現れる。棄教し、仏教に改宗したかつての師の姿にロドリゴは魂のぬけた生きものを見るような憐れみを感じるが、かつて神学校で神学生の敬愛を受けていたフェレイラ先生は、人生を歩きながら認識を獲得したのだ。フェレイラは言う、「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろう。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地にキリスト教という苗を植えてしまった。」
ロドリゴは反論する「その苗がのび、葉をひろげた時期もありました。」
「いつ?」
「あなたがこの国にこられた頃、教会がこの国のいたるところに建てられ、信仰が朝の新鮮な花のように匂い、数多い日本人がヨルダン河に集まるユダヤ人のように争って洗礼をうけた頃です。」
「だが日本人がその時信仰したものがキリスト教の教える神でなかったとすれば?」
ロドリゴは、フェレイラの言葉に怒りを感じる。敗北したものは弁解するためにどんな自己欺瞞でも作りあげていくのだ。「あなたは、否定してはならないものまで否定しようとされている!」
「そうではない。この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も、日本人は勝手に大日とよぶ信仰に変え、別のものを作りあげたのだ。日本人はキリストの神ではなく、彼らが屈折させたものを信じていた。日本人はこれまで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。お前たちは布教の表面だけを見て、その本質を考えていない。」その言葉は、動かしがたい岩のような重みでロドリゴの胸にのしかかってきた。それは彼が子供のころ、神は存在するとはじめて教えられた時のような重力を持っていた。
彼は人々のために死のうとしてこの国に来たが、事実は日本人の信徒たちが自分のために次々と死んでいった。どうすれば良いのか、わからない。行為とは、今日まで教義で学んできたように、これが正、これが邪、これが善、これが悪というように、はっきりと区別できるものではなかった。神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。
フェレイラは続ける、「日本人は人間と隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない。日本人は人間を美化したり、拡張したものを神と呼ぶ。」
この言葉に、僕も個人的記憶をたどる。5年前まで長女が通っていた近所のカトリック幼稚園では「なぜか?」聖母マリアを偶像崇拝していた。きっと日本人はあのような「優しいイメージ」が好きなのだろう。家族で上野原縄文の森に遊びに行ったある日の記憶を思い浮かべた。僕は《地層監察館》という建物で2万年に渡り積み上げられた地層を見て、「これこそ日本の歴史そのものだ!」と直感した。外から主義を取り入れ、オリジナルにアレンジし積み上げたのもが日本の歴史だ。だから日本には日本発信の思想がない。信長や秀吉や家康は「天下統一」を目指したが、「国家とは何か?」という定義を持てなかった。まるで動物園の猿山で目にするような知性ない喧嘩だが、その猿山を、外から理性的に眺める目があった。江戸時代の終わりにかけ、外の目に気付いた猿が現れ猿山に革命がおこる。それが明治維新以後の『日本近代化』だ。しかし、日本人には思想がない。そこでもやはり「国家とは何か?」という定義がなさていない。卑弥呼や天草四郎になら、思想があったかもしれない。しかしそれらは虚構の歴史とされている。天草四郎と言えば、『沈黙』の舞台設定は島原の乱が鎮圧されて間もないころ。ということは、1640年頃だろうか。そのころ西洋では三十年戦争の真只中。ウエストファリア条約が結ばれ、主権国家体制となり、国民国家という概念が生まれ、ナショナリズムが生まれたころ。丸山眞男の、『超国家主義の論理と心理』という短く凝縮された素晴らしい論文がある。その争点は日本の戦争責任論。明治維新後に日本ナショナリズムが天皇制の元ウルトラ化し、ファシズム化した特殊思想の解明に取り組んだものだ。そこに面白いことが書いてある。【ヨーロッパの近代国家は中性国家たることに一つの大きな特色がある。それは真理や道徳などの内容的価値に関して中立的立場をとり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例えば教会)或は個人の良心に委ね、国家主権の基礎を内容的価値から切り捨てた純粋な法の上に置いてあるのである。】西洋の近代国家は、宗教改革につづく宗教戦争のなかで成長し、思想や道徳の問題は「私事」として主観的内面性が保証された。ところが、と丸山は続ける。【日本は明治以後の近代国家の形成過程におき、このような国家主権の中立的価値を表明しようとしなかったため、権威は権力と一体化した。そこに内面的世界の支配を主張する教会的勢力は存在しなかった。やがて台頭した自由民権運動も、真理や正義の内容的価値の決定を争ったのではなく、もっぱら国民の外部的活動の範囲と境界をめぐる争いだった。】この、「近代人の道徳の内面化」という問題を扱う文学者が夏目漱石だ。きっと漱石はルソーの社会契約論、ジョンスチュワート・ミルの自由論などを熱心に読み、イギリス留学を体験して、自らの時代に問題を発したのだろう。だから漱石を読むことは(それがけして面白い話じゃなくても)面白い。日本人が「個人」という概念を得て「思想らしきもの」をもてるようになったのもこのころから。『明治維新』という土壌に、夏目漱石という芽が出、福沢諭吉という芽が出、西田幾多郎という芽が出た。ちなみにわが街のスーパー・ヒーロー『西郷隆盛』には、残念ながら鼻糞ほどの思想もない。
余談序に、丸山の文章の最後の部分をもう一度抽出し、現在の問題に抽入したい。―やがて台頭した自由民権運動も、真理や正義の内容的価値の決定を争ったのではなく、もっぱら国民の外部的活動の範囲と境界をめぐる争いだった―この問題こそ、現代の問題だ。何の?もちろん、憲法9条の問題だ。議会(そしてデモクラシー!)では右も左も、問題の本質を理解している者が見当たらない。あらゆる矛盾が含まれる憲法9条という言葉。この憲法9条の問題とは、創造の問題だ。未だ戦争責任論ひとつ示せない『日本国民』という民族に、僕は確信をもてない。だから憲法改正には反対する。歴史の本質がその時代を生きた人間精神の弁証法的イデオロギー闘争だとするなら、テーゼもアンチテーゼも提示できないこの国の歴史は終わった。この国には創造者が居ない。これが問題の本質だ。

 

そろそろ『沈黙』の話しに戻ろう。物語はクライマックスに向けて進んでいく。
聖書のなかで、キリストがユダにむかって言った言葉、「去れ、行きて汝のなすことをなせ」は劇的シーンだが、ロドリゴは司祭になってからも、この言葉の意味がよく掴めないでいた。いかなる感情で、キリストは銀三十枚のために自分を売った男に「去れ」と言ったのだろう。怒りと、憎しみのためか。それともそれは愛から出た言葉か?キリストはユダさえも救おうとした。
ロドリゴが捉えられる奉行所の門の前では、銀三百枚でロドリゴを裏切ったキチジローが泣き叫び、許しを請っている。ロドリゴはそんなキチジローの姿に軽蔑しか感じない。このシーンではっきり分かる。この物語は入れものとして、そのまま聖書のパロディーになっている。もちろんロドリゴがキリストで、キチジローがユダだ。つまり遠藤はロドリゴにイエスの人生を投影している。しかしこの物語をそれだけで解釈するのは勿体ない。もっと色々な角度から省察してみよう。
「キチジローは悪い人間なのだろうか?」映画でキチジローの役を演じた窪塚洋介は、情けないくらい踏み絵を何度も踏みまくる。過去の回想シーンでは、家族みんなが踏み絵を拒み生きたまま焼かれるなか、その様子を眺める、踏み絵を踏んだキチジローの姿があった。映画の冒頭でロドリゴとマカオで出会ったキチジローは、酷く酔っていた。この男は、損なわれた人間のだ。キチジローという男の特徴はなによりもまずその「弱さ」にある。ロドリゴはキチジローの姿を見て思う。人間は生まれながらに二種類ある。強いものと弱いものと。強者はこのような迫害の時代にも信仰のため炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように、山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏み絵を踏んでいたかもしれぬ。やがてキチジローへの恨みは消えてく。神がいるとしたら、本当に救わなくてはいけないのはキチジローのような人間なのかもしれない。
だが、「去れ、行きて汝のなすことをなせ」この言葉の意味が分からない。言葉だけではなく、あの人の人生におけるユダの役割というものが、よく分からない。あの人はなぜ、やがて自分を裏切る男を弟子に加えたのか?ユダの本心を知り尽くしていて、どうして知らぬ顔をされていたのか?それはまるで、ユダがあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。それらの疑問は神学校のときも司祭になってからも、沼にうかんでくるどす汚い水泡のように意識に浮かびあがってきた。そのたびごとに彼はまるでその水泡が彼の信仰に影を落とすもののように考えまいとした。だが今は、もう追い払うことのない切実さで迫ってきている。
僕は2時間半の映画を観ながら考えていた。例えばこういう状況で「お前なら踏むか?」と。答えは言うまでもなく…

 

いよいよクライマックス・シーンだ。神の殉教を期待して牢につながれたロドリゴに、夜半フェレイラが語りかける。説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、「穴刷り」にされ、拷問されている信者の声であり、その信者たちはすでに棄教を誓っているが、ロドリゴが棄教しない限り許されないのだと告げる。自分の信仰を守るのか?自らの棄教という犠牲によってイエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか?究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知る。
「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。ここに入れられ耳にしたあの声に、神がなにひとつなさらなかったからだ。」
「あなたは…」ロドリゴは泣くような声で言った、「祈るべきだったのに。」
「祈ったとも。わしは祈りつづけた。だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。あの男たちの耳のうしろには小さな穴があけられている。その穴と鼻と口からの血が少しずつ流れだしてくる。その苦しみをわしは自分の身体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない。」
主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙ってはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを明示するために、この地上の人間たちに何かを言わねばいけない「…あの人たちは、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びをえるでしょう。」
「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない。お前は彼等より、自分が大事なのだろう。すくなくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいのだ。」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「…わしだってそうだった。あの真っ暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭はキリストにならって生きようと言う。もしここにキリストがいられたら…」フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。「たしかにキリストは、彼らのために、転んだだろう。」
「そんなことはない。」
「キリストは転んだ。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても。」
「さあ。」フェレイラはロドリゴの肩にやさしく手をかけて言った、「今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ。」ロドリゴはよろめきながら、足をひきずった。重い鉛の足枷をつけらたように一歩一歩、歩いていく彼をフェレイラが後ろから押す。「協会よりも、布教よりも、もっと大きなものがある。お前が今やろうとするものは…」踏み絵は今、彼の足もとにあった。この世で最も美しいものとなって私の心に生きてきたもの。それを、今、私はこの足で踏もうとする。
「ああ。」とロドリゴは震えた。「痛い。」
「形だけ踏めばよいことだ。」
ロドリゴは足をあげた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたものを、踏む。この足の痛み…その時、「踏むがいい」と銅版のあの人はロドリゴにむかい言った。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」司祭は踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いていた。

 

最後にロドリゴにむかい語ったものこそ「人間イエス」だと、僕は思う。イエスという人間は、自由な認識者として生き、一切の決まりごとを認めなかった。イエスという人間は強烈な思想家で、革命家で、アナーキストで、アウトサイダーだ。時代に反抗し続けることで崩壊寸前となった精神が内部にいくつかの人格を創り出し、幻想を見せることによってぎりぎりの状態で精神を保った。あたかもイエスの声を聞いたロドリゴのように。そのようなキリスト像を、僕は個人的に思い描いている。けっきょく神や宗教といったものは、個人的な体験なのだ。世界は認識である。愛すべき狂人、イエスという「たった一人のキリスト教徒」の思想を、ペテロとパウロが利用し、「キリスト教」をつくった。司祭に思想はない。司祭はイエスの思想を「予言者」として編集し、そこに「善悪という道徳」をつくり、宗教という「システム」を構築して民衆の人間精神を1000年以上支配した。これはマルクスとスターリンの関係、ヒットラーとドイツ国民、そして、未だ天皇制ファシズムに陥りつづける日本国民も同じだ。「思想」という言葉を、いまでは誰もが使いすぎる。ひとつの思想をもつということは、ひとつの狂気をもつこと。僕たちはこんな時代にこそ、一億人の思想をもちたい。

 

遠藤周作は『沈黙』のなかで自らの思想を示し、ローマ・カトリックを批判した。思想をもたぬ司祭は日本をキリスト教国にする夢を見て死をも辞さぬ覚悟でやってきたが、現実に巻き添えをくったのは、司祭を慕う貧しい農民信者たちだった。ロドリゴは現実に対する絶望のなかで、弱さを認め、教会で教えられる神とは別の形で、自らの内に神を創造した。
―自分が闘ったのは築後守を中心とする日本ではなかった。自分が闘ったのは、自分自身の信仰にたいしてだった。聖職者たちはこの冒涜行為を責めるだろうが、自分は彼らを裏切っても、あの人を決して裏切っていない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がこの愛を知るためには、今日までのすべてが必要だった。あの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生が、あの人について語っていた。―
今では自由に話されることだ。イエズス会とは、信仰による植民地化をはかる戦闘集団だ。しかし宗教の本質とは、権威による布告などではなく、信仰者それぞれの個人体験による認識によって決められるのだという遠藤の声を、僕は感じずにはいられない。信仰とは、けして形式をもつものではない。
キルケゴールの『死に至る病』という書物に、ロドリゴが見出した神の概念が詳しく書いてある。合わせて読むと面白い。

 

「日本人とはいかなる人間か?」これが遠藤の小説に一貫しているテーマだ。例えば、沈黙から8年前の作品で、太平洋戦争中に捕虜となった米兵を臨床実験として使用した「九州大学生体解剖事件」を題材とした『海と毒薬』に登場する医師は、どこにでもいる標準的日本人だ。アメリカ軍捕虜の人体実験に関わる医師は、良心の呵責を感じながらも、誰にでもあるような人生の「偶然」のタイミングで人体実験に参加を呼びかけられ、反発もせずに関わってしまう。
実験前、戸田医師は勝呂医師に問う。「神というものはあるのかな?」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、人間は自分を押し流す運命から、どうしても脱れられんやろ。そうゆうものから自由にしてくれるものを神と呼ぶならばや。」
実験後、勝呂は戸田に問う。「俺たち、いつか罰をうけるやろ。」
「罰って世間の罰か。世間の罰じゃなにも変わらんぜ。俺もお前もこんな時代のこんな医学部にいたから捕虜を解剖しただけや。俺たちを罰する連中かて同じ立場におかれたら、どうなったか分からんぜ。世間の罰など、まずまず、そんなもんや。」
この二人には、個人的倫理に基づく行動原理が存在しない。集団心理や同調圧力に負け、平凡な人格の持ち主がなんとなく非道に転じてしまう。日本人は結局、集団として現世に不利益と思えば考そのものを大きく変更しても構わない。この原理は日本人にとってあらゆる原理より強い。これが『罪と罰』のラスコーリニコフなら、偶然の系列で世間と異なる場所に見出した神の前に立ち、自らに罰を課すだろう。『ペスト』のリュー医師なら、どんな運命に対しても反抗し続けるだろう。日本人の遠藤周作は「神なき日本人の罪の意識」を書く。そしてこれは、これからの話しなのだ。

 

丸山眞男が指摘するように、権威が権力と一体化し、近代化した日本で、いま話題の「教育勅語」がつくられた。その目的は上からの原理の押し付けであり、考えることができない人間をつくることにある。そしてそれは戦後民主主義化での教育でも、ほとんど同じ原理だ。長友学園問題は、驚くことではない。あれは今この国でなされている教育そのものの姿を写す鏡だ。それがあのように分かりやすく現れるか、巧妙に隠されているのかだけの違い。来年から小学校で「道徳教育」が正式な教科として大戦前以来復活するという。これから「逆コース」の「逆コース」がはじまる。最近テレビで『日本一頭の良い小学生選手権』みたいなクイズ番組がよく放送されている。あれは僕には、イデオロギー形成のためのプロパガンダにしか見えない。日本の義務教育は問題に頭を使う人間を育てるのではなく、何でも知っている人間を仕立て上げる。子供が一生懸命勉強し、テストで良い点をとること、それは本人が自発的にそれを望み自己実現するのなら、素晴らしいことかもしれない。しかしそのような場合でも、まともな大人なら子供に釘を刺す必要がある。テストで良い点を取ること。それが目的となり、それ自体に頭を向ければ向けるほど、頭はどんどん悪くなるのだと。あの、『日本一頭の良い小学生決定戦』に出場し大衆に面をさらすエゴイズム被害者たちは痛々しくも日本一頭の悪い小学生なのだ。
ドイツという国は、分かりやすいかたちで『ヒトラー』という象徴があった為にそれを教育に活かした。若い2人が結婚し、家族という国家形成の最小単位を持つと同時に一家に一冊、『我が闘争』がプレゼントされるらしい。ドイツの教育理念は「たとえクラスで1人になっても、最後まで自分の意見を貫き通すこと」だそうだ。けして第二のアイヒマンをつくってはならない。頭の良い人間(自分でものを考えられる人間)とは、自ら問題を発っすることのできる人間のことだ。そして日本の義務教育は、この人間をつくらない。なぜか?自分で考えることのできる人間は、国家にとって都合が悪いから。

 

「国家とは、あらゆる冷ややかな怪物のなかで、最も冷ややかなものである。それはまた冷ややかに嘘をつく。」ツァラアツゥストラはこう言った。

 

国家とは、ビック・ブラザーだ。第三次大戦後の世界を設定したジョージ・オーウェルの『一九八四年』がいまアメリカで、ヨーロッパで、日本で、世界中で読まれている。なぜか?理由は簡単だ。いまの世界が、半世紀以上前にオーウェルが描いた世界に類似的だから。
《イングソック》というイングランド社会主義の元《テレスクリーン》という双方向性テレビジョンにより監視させる国民たち。これは現代のテレビやインターネットのこと。そのなかで国民は《二分間憎悪》という儀式でガス抜きをする。これはベッキー不倫騒動みたいなワイドショーネタ。《ダブルシンク》とは、例えば倫理的に過ちを認めながらも稼働を続ける原子力発電所のようなもの。ハヤカワ文庫新訳版でトマス・ピンチョンが書く《ダブルシンク》に関する解説を大きな声で読み上げたい。【結局、多くの問題に対して態度を決めずに少なくとも二つの見解を持つことが、現在の超大国における政治思想の状況ではないだろうか。言うまでもなく、その地位に、可能であれば永久に、留まりたいと望む権力者にとって、これは計り知れないメリットがある。】
この物語の主役であり、党のプロパガンダをつくる真理省の役人であるウィンストン・スミスの仕事は《歴史改ざん》。これは「南京大虐殺」を改ざんする現代の教科書のように日々普通に行われていること。そしてこの手法は、そのまま《ニュースピーク》に繋がる。思考の幅を減らし、単純化させるために「言語」を減らす。例えば、「良い」の反対語「悪い」をなくし、「非良い」とする。「素晴らしい」や「美しい」などの同義語もなくし、すべて「超良い」とするような新語法をつくる。すると思考の幅がどんどん狭く浅くなり、反政府的な思想は諸滅させられる。するとある日ビック・ブラザーが2+2=5だと言えば、2+2=5となるのだ。さすがにこれは、小説のなかだけの話しだろうか?僕にはとてもそうは思えない。最も、物質的に豊かな現代人は能動的にそれを行なっている節があるのだが…
これから僕たち「日本人の大人」は、思想を身につけなければならないと僕は思う。今からでもおそくない。ひとつの狂気を身につけたい。
考えてみれば、人間なんて、本人がそれを望む望まぬとに関わらず、偶然この世界に産み落とされ、不条理に死んでいくだけの存在だ。
そして生と死の間にある人生ですら、運命に翻弄される。これから僕たちの運命が、やってくる。
しかしそのなかでも、選べるものがあるはずだ。
アウシュヴィッツに収容されたフランクルは『夜と霧』のなかで書く。
「どんな運命にあろうとも、与えられた事態に対してどういう態度をとるかは、誰にも奪えない、人間の最後の自由である。」
最後に、この文章は全て個人的な読書感想文のようなものだ。メリー・クリスマス!よいお年をお迎えください。

必然の音楽《門プロジェクト報告と今後の営業案内》

2017.12.12
クラウド・ファンディングでの資金調達(目標額クリア!)移設、設置、試聴会、ファンディング・リターンと一通りの過程を終えて、ほっと一息。年明けには『モンスター・ナイト』なる金曜夜の営業も始まる。
今回のには誰かの意思などなく、どこからともなく聴こえた「声」をキャッチした者が選択することにより拡がった音楽。そこにひとつの流れが生まれ、偶然の系譜で鳴り響いた。「まさに偶然の音楽」などとセンチメンタルに浸って試聴会でジェリー・マリガンを聴いていると肩をちょんちょんと叩かれ、ハマケンあれ見て!あの時計、あれにNEW GATEってかいてある!と坂口さんが言うので、アンプ棚の、上を、見上げると、7年前どっかの家具屋で偶然買った時計にたしかにNEW GATE(新しい門)とかいてある。ほんとーにもうっ!人生ってやつは、へ、へ、へ!偶然なんだからさ!と感づくがいやいやそうじゃなくってこれはもう、は、は、は!必然でしたね!と2秒後に笑い答えていた。

 

さてさて今回の出来事で、僕も個人を超えた個人的行いを行うこととなり、コーヒーイノベートの中に《門プロジェクト》という共有化された保有物が置かれることとなった。選択には責任が伴うもので、ここでコーヒーイノベート責任をひとつ宣言しておきたい。
①これまで通り店の営業を続け「音声」を「未来」に向かって開放し続けること。
②門の意思を受け継ぐ形で、金曜夜に営業すること。
①は言うまでもなく、②は門が閉店する間際数ヶ月店に通い感じたこと。
コーヒーイノベートは今後このように役割を果たしていく。
ということで、来年から営業時間を改めまして。
月曜~金曜 8:00~17:00 レコード・タイム13:00~16:00
金曜夜   20:00~0:00 レコード・タイム
土・日・祝 貸切り営業(パーティー、2次会、イベント等で、コーヒーイノベートの空間を活用しませんか?1時間8,000円~メールにてお気軽にお問い合わせください。)
※音をつくるために用いる真空管アンプやプレイヤーは門で40年以上前からは使用している繊細な機械な為、消耗を配慮し、平日は13:00~16:00のみレコードをかけます。それ以外の時間はCDをアルティックのスピーカーから流し営業いたします。
※モンスター・ナイトは毎週金曜の夜に開催します。
 ビール、ウィスキー、焼酎、ワイン、アイリッシュコーヒー等のアルコールメニュー、簡単なつまみも用意していますが、香りが強くないものなど良識の範囲内であれば持ち込もOK!
 門のマスターも気の向くままに立ち寄り、レコードをまわしてくれます。
 1月5日~20:00スタート!

音楽に耳を傾けるという体験

2017.09.19
『嘔吐』という小説は、『実存は本質に先立つ』というサルトル自身の哲学を表現する試みとして、おそらく逆算で書かれた文学作品だろう。けして面白い話ではない(と思う)が、しかしそのなかでもひとつだけ面白い(と思う)シーンがある。
主人公のロカンタンは紙切れから石ころまで、日常にありふれた「物」を見たり触れたりすることで、「吐き気」を感じる。彼の日常は嘔吐感の連続だ。この「吐き気」がいったいどこからやってくるのか?解釈を欲することが小説を読む醍醐味だろう。しかしこれから長々とその話をするつもりはない。なんといってもつまらない話なのだ。個人的解釈を簡素に述べると、ロカンタンはあまりにも誠実な認識者であり、「人生には必然などなく、すべてが偶然で、不条理にみちたもの」だと感づいている。そして「意味や目的」といったものを基盤とするこの世界の日常の生活に、「吐き気」がするのだ。ロカンタンとは、ある意味「目覚めた者」なのである。サルトルの手によって、そう意図的に形造されたロカンタンだが、僕が面白いと思ったのは小説内の次のシーンだ。
ロカンタンはカフェに入り、コーヒーを飲みながら音楽に耳を傾ける。お気に入りのJAZZのアナログ・レコードを聴く時にだけ、吐き気は消える。【何物も、日常世界がはまりこんだあの時間から来るものは、音楽を中断させることができない。音楽は自分自身で、秩序にしたがって終息するだろう。私がこの美しい音を愛するのは、とりわけそのためだ。その声の豊かさのためでも悲しさのためでもない。それが無数の音符によって遠くから準備された出来事であり、しかも音符はこの出来事が生まれるために死んでいくのだから。】これこそ、芸術体験そのものだ。おそらくロカンタンは、偶然性に満ちたこの世界のなかで「音楽だけは必然性を持っている」ことを認識した。そしてロカンタンは、「自分も何かあのようなものを創造してみてはどうだろう?」と考えはじめようになる。それは混沌とした日常に自らひとつの秩序をもちこもうとする試みだ。ロカンタンは、決心する。「意味や目的などない人生のなかで、生き方を探そう」。そして『嘔吐』は、ロカンタンが自身の小説を書きはじめた場面で終わる。これはサルトル流のヒューマニズムであり、戦前に書かれたこの作品のなかに〝アンガジュマン〟という思想の芽生えがある。

 

さて個人的な話をすこしだけ。じつは僕はあまり音楽を聴かない。じつは僕が個人的に一番好きな「音」は「無音」だ。モーツァルト、シューベルト、ショパン、シューマン、メンデルスゾーン、リスト、サティ、クラシックは、たまに聴く。しかしそれも車を運転しながら、掃除をしながら、料理を作りながら、本を読みながら、なにかを書きながらといった状況での音楽だ。僕は日常生活で、音楽そのものに耳を傾けるという時間をもたない。いやもたなかったと、過去形で述べるべきだろう。なぜなら数年前に坂口さんが”GOOD NEIGHBORS’ MUSIC VENDOR”という企画でイノベートにアナログ・レコードを持ちこんでから、僕の音楽に対する認識が変わったからだ。デジタル配信が主流となる現代で、アナログ・レコードから流れる「音」は、なんだか自然そのもののような響きがする。僕はいまたまに、コーヒーを飲みながら音楽そのものに耳を傾けるという時間をもつ。こう言ってはおおげさに聞こえるだろうが、アナログ・レコードから流れる「音」を聴いていると、身体を構成する60兆の細胞が反応し、分裂し、複製し、なんだか自分が「再生」され、「変身」したような気分になるのだ。
ピアノや、トランペットや、ドラムや、ベースといった楽器から発生する小さな波は複雑に織り合わさって大きな波となり、スピーカから流れ出る。人間の耳が波をキャッチし、それが鼓膜という器官に抽入されると音となって脳に抽出され、音楽という幻聴となる。〝音楽は人間細胞に鳴り響く〟

音楽とは、身体に染み込むものなのかもしれない。かつてロカンタンがそうであったように。かつて肉体労働後の僕の身体にペギーリーのブラック・コーヒーが染み込んだように。とくにJAZZという音楽は、外部から内部に浸透するものなのかもしれない。
ロカンタンは、外部にある「物」が内部に侵入することで「吐き気」を感じた。「吐き気」とは「呆れ」や「怒り」よりもっと根源的な、身体の底から込み上げる「身体反応」だ。
現代の民主主義、あるいは資本主義社会に生きる僕たちの日常にこそ、「吐き気」を感じる瞬間はないだろうか?例えば右手のスマート・フォン。例えば原子力発電所におけるこの街のパースペクティブ。慌ただしい日常のなかで時間を設け、情報を遮断し、「音楽に耳を傾ける」という行為はなにかとても豊かな体験なのかもしれないと、僕はいまさらながらに思う。
今回の企画が成功したら、例えばこのような時間を設けようと思っている。

『門』@COFFEEINNOVATE~Friday Night営業(フルパワー・タイム)

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2017.09.13
西駅の改札を出て市電の線路沿いをぶらぶら歩いていると、円形の細長いビルが見えてくる。ビルの下に立ち、上を見上げる。薄っすら蔦に覆われたビル側面に『珈琲 門』というおおきな看板が取り付けてある。僕は中に入って、コーヒーを注文する。店の内装は特徴的な外装と同じように、ある特定の時代を感じさせる雰囲気がある。奥の壁には年代物のスピーカーが吊るしてあり、そこからヘレン・メリルの「ユード・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」のCDが程よい音量で流れている。カウンターに座る僕の目の前で、白髪にのっぺりした口髭を生やしたマスターが、僕の注文したサイフォン・コーヒーを淹れてくれる。ロートの内のコーヒーに湯が浸透し、それを竹ベラでぐるぐる攪拌する作業越しにマスターの眼を覗くと、そこに特定のポリシーというかモットーというか、なにか「根本方針」みたいなものを、僕は感じ取る。当然ティーン・エージャーで青二才の「あの頃の僕」は、話しかけられずにいる。まさに『門』という雰囲気のあるマスターだな、そう思う。これは後ほど知ったことだが、門のマスターは常連客から『門スター』という愛称で呼ばれ、慕われていた。僕が最初に感じ取った印象も案外的外れではなかったのかもしれない。ところで、『門』という店名の由来は、漱石だろうか?いやあるいは…そんなことを考えているうちに、僕のコーヒーがやってきた。煙草に火をつけ、考えを頭の隅に追いやり、「ニューヨークのため息」に耳を傾けコーヒーを飲む。
いま僕は、自分で淹れたサイフォン・コーヒーを飲みながら、この文章を書いている。ロートからフラスコへ吸い込まれていくコーヒーの液のように、僕の記憶も抽出され、ひとつ思い出す。僕はその頃、JAZZに出会ったのだ。多分10代の終わりにかけて。僕はパート・タイムで、深夜に荷物の仕分け作業をこなしていた。午前3時に仕事が終わり、眠気と、くたくたに疲れた体で車に乗ってエンジンをかけた瞬間FMラジオから流れてきた音楽が、JAZZだった。僕ははっきり覚えている。それはペギー・リーの、「ブラック・コーヒー」だ。サラ・ヴォーンでも、ジュリー・ロンドンでもなく、ペギー・リーの、スロウなテンポだった。間違いない。そしてちょうどその時期、僕はたまたま『門』に入って、ヘレン・メリルを聴いた。これは多分たしかな記憶だ。
しかしその日以来、僕が『門』に足を運ぶことはなかった。落ち着いた空間に美味しいコーヒー、心地よい音楽を味わえる店だとは思った。しかしまぁ正直な話、それ以外でとくに特徴を感じるような店ではなかった。そもそもあの頃の僕にとって、コーヒーやコーヒー・ブレイクといったものは、ほとんどかっこつける為だけにする背伸び行為だったのだ。

 

 今年の夏のはじめに、坂口さんから『門』の話を聞いた。『門』という単語が出た瞬間僕は記憶をたどったが、坂口さんの話にはまだ続きがあった。なんと『門』には2Fがあり、そこに4000枚のLPレコードと巨大なALTECのスピーカー、真空管アンプのサウンド・セットを用いて、金曜の夜にだけマスターが好きなJAZZをフル・パワーでかけまくっているとうのだ。「今度一緒に行ってみないか?」と言われ、僕は出掛けた。そうして僕は『門』の本当の姿を知ることになる。この店の真のキャパ・シティーは、金曜の夜にあったのだ。店は20:00の開店と同時に街のJAZZ好きが押し寄せ、あっという間に超満員になった。マスターも常連客と陽気に話をしている。なんだ、ぜんぜん難しい人じゃなさそうだ。話しかけてみると、次々に面白い話を聞かせてくれる。僕が知ることのない60,70,80年代の街の文化的記憶、店の歴史、JAZZの歴史、驚いたことに、マスター達『鹿児島モダンジャズの会』は、鹿児島にヘレン・メリルを呼んでいた。さらに同会が発行していた『MODERNPALS』というリトルマガジンを読ませてもらっていると、『風の歌を聴け』でデビューした直後の村上春樹の寄稿を発見する。なんてディープな活動だ…もともと、1Fが喫茶で2FがBARというスタイルで40年に渡り営業してきた『門』は、現在は御夫婦の高齢ということもあり、金曜の夜にだけひっそりと2Fを開けているとのことだった。そしてじつは、2020年に向けた鹿児島中央駅エリアの再開発により、すでに建物の取り壊しが決まっているという。店は9月いっぱいで閉店し、今後継続することは考えていないようだ。そこで坂口さんから、提案があった。「マスター個人の審美眼によって選ばれたレコード・コレクションは貴重な文化的資産。この街で、40年に渡って積み重ねられてきた歴史的文化資産がばらばらに解体され、無きものとなるのは勿体ない。街のみんなが楽しめるミュージック・ライブラリーとして機能出来るように、サウンド・システムとライブラリーをまるごと譲り受け、イノベートに移設して、継続できないか?誰もが気軽にアクセスできるように、未来へ向け解放できないか?」と。えらい話である。あーえらいこっちゃ、えらいこっちゃ。しかし坂口さんの行動には、もちろん共感できる。損得より衝動で、自然と動く人なのだ。〝トリガー・エフェクト〟という言葉がある。ある個人の衝動や行動に周りが影響を受け、それが反響し、波紋となって差し響き、なにかの形をつくる。僕に「街のこと」を考えるようなキャパ・シティーはないが、僕は僕個人として、生まれて死ぬまでにある時間と空間に現れる事物にその場で反応し、ヴィジョンもなにもなく、ただ僕の人生を僕なりに歩いている。そうして店をはじめ、人に出会う。坂口さんに出合い、今回のことでマスターに出会った。偶然でしかない人生のワンシーンで今回の話を聞いた時に、答えはすぐに出た。それは僕のなかでは企画どうこうというより、偶然で不思議な人との出会いと関りの連鎖からやってくる、あるがままの自然な回答だ。多分このような感覚のことを、人は「直感」と呼ぶのだろう。もちろん返事はこうだ、「やりましょう!」
マスターに話をしに行くと、どうやら他にも引き取り先の話しはあるようだ。しかし君たちに譲るよ!言ってくれた。どうやらこちらの意図することにも共感して頂いているようだ。さぁいよいよ本格的な話になってきた!ALTEC巨大なスピーカーを搬出する為にはビルの壁を壊し、クレーンでおろす必要がある。イノベートの店内にレコードを収納する棚を作る必要がある(レコードは数トン単位の重さになる)。セメントを流してスピーカーを設置する台を作ったり、搬入搬出時の作業人員、サウンド・システムのチューニング、メンテナンス費用、マスターのレコード・コレクションに関しては、買い取るというよりまるごとお借りするという感覚だがもちろんすこしでも多くお渡ししたい。残った問題は「誰が、どのように、費用を負担するか?」ということだけだ。それが〝トリガー・エフェクト〟の引き金音が聴こえた「なにかの形」を望む個人の自発的自由意志だったら素晴らしい。そういった経緯で、今回クラウド・ファンディングで資金を募ることとなった。サイトを見てみると、レコード・キープなどのリターンがある。【街のミュージック・ライブラリー】に、あなたも参加しませんか?
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ずぶぬれの犬、「写真撮影はご遠慮ください」。

2017.06.01

日曜の朝、飼い犬を風呂に入れる。ニーチェみたいな髭の、ドイツ産ミニチュア・シュナウザーだ。私は彼を浴室に入れ、シャワーを浴びせる。立派な髭は水にぬれると19世紀のロシア作家(おもに晩年のトルストイやドストエフスキー)のように垂れ下がり、全身が濡れ骨格が露出する姿を見て「貧相だな」と思う。しかし次の瞬間。彼は体をおおきく左右に振って、自分を濡らした〝水〟をブルブル外へ弾き飛ばす。このおそろしく本能的行為を眺めているとき、私は理解した。「この犬の姿こそ、現代人だ!」
現代人の姿は風呂上がりの犬だ。我々も彼を見習って、体を左右にブルブル振り、それでもまだ体の真に残る水を飲めば良い。
もちろん現代人にとっての「水」とは「情報」のことだ。

200年前にヘーゲルは、「歴史とは人間が自由を実現していく過程。」と言ったがヘーゲルから200年で人類はもうひとつ歴史を積み重ねた。すなわち、「人間は、自由の為に道具を開発し、開発した道具の奴隷となる。」グーテンベルクによる活版印刷からはじまる『情報革命』にいよいよインターネットが登場した。情報とは、道具だ。しかし、「人間は人間の豊かさの実現のため物を生みだし、生み出した物に支配され、最後には物のために生きるようになる。」これもまたひとつの歴史。近年、資本主義という体制の元「金」という道具に人類が隅々まで支配されたという事実を見てもそれは明らかだろう。「資本主義社会」は仕事へ服従し、熱心に働いて金を得ることを「美徳」とする人間を創造した。しかし、ここでもう一つ重要な歴史がある。すなわち、「道具は、誰もが使いだすと、その価値を薄める。」これから歴史通り歴史が進むと、資本主義社会の中で「金」の価値はなくなり、情報社会の中で「情報」の価値はなくなるというわけだ。

ところで、『服従』というスキャンダラスな本を切欠に「ミシェル・ウェルベック」の存在を知った人も多いだろう。今をリアルに捉え、未来を描く作家だ。ウェルベックが描く「未来」とは、ポスト資本主義、ポスト消費主義、ポスト人間主義、ポスト自由主義後の中で生きる個人が陥るであろうニヒリズムだ。その小説の主人公の姿に、資本主義が隅々まで発展した21世紀に生きるムルソー(カミュ、異邦人)を観る。私は昨日『地図と領土』を読み終えた。この小説は「物」を表現するため写真家になり「人間」を表現するため画家となった芸術家ジェドの話だ。彼は言う、「何年ものあいだ、孤独に仕事を続けることはできる。それが本当の意味で仕事をする唯一のやり方でさえある。だが必ずや、自分の作品を世の人々に示したいという欲求を覚えるときがやってくる。世間の評価を知るためというよりも、作品、さらには自分自身が本当に存在しているのだということを確かめるためである。社会の内部にあって、個人とは、束の間のフィクションにすぎない。」この言葉が表すことの意味は何だろう?ナポレオン以降に「自由」を獲得した孤独な人間は全員がなにかしらの芸術家になる必要に迫られた。しかし芸術家は傷つきやすい。なぜなら彼が尊重されるには「成功」という「結果」が必要だからだ。いま彼が属する社会で彼の作品が売れなければ彼は隣人から「狂人」と呼ばれかねない。しかしガリレオは今でこそ「偉人」として教科書に登場するが、16世紀に「地球が太陽の周りを回っている」と主張したら「狂人」と呼ばれ、牢屋にぶち込まれた。ニーチェの場合はもっと直接的だ。彼は最後までシステムに同意することを拒絶し、本当に発狂して死んだ。独りぼっちでどんな法にも従わない、自ら内につくった法にのみ従う愛しきニーチェさん。生前、社会からほとんど承認されず、それでも作品を創り続けたファン・ゴッホやフランツ・カフカは生きている間「不幸」だったのだろうか?いやおそらく、彼らにとって純粋な「幸福」の時とは、作品を創るその「瞬間」にあったのではいかと思う。少なくともその瞬間に、人間は「自発性」を認めることができるからだ。その「創造的活動」こそが、彼が彼のパーソナリティーを犠牲にすることなく孤独を克服する道にほかならない。それは活動そのものが大切で、結果が大切ではないということを意味する。しかし、いま我々が生きる社会にあっては、残念ながらまさにその逆が強調される。我々は満足を目指して生産するのではなく「商品を売る」という目的のために生産をする。「マーケティング」という言葉はもっともこの現象を抽象的に表した言語だろう。いまやマーケティングにも『情報革命』がおこる。企業は専用のサーバーを導入してインターネット上にネットワークを形成し、蜘蛛の巣を張り巡らす。サイトにアクセス(網にかかった!)消費者に「印」を付け、その印をどこまでも広告で追いかけるのだ。消費者のスマートフォンがインターネトにアクセスすると各々に異なるバーナー広告が現れ、ポイントカードなどのビックデーターと連携した企業は個人情報を略奪し、丸裸にし、郵便ポストにポスティングする。今や「個人」は「企業」によりセグメーションされ、ポジショニングされている。フィリップ・コトラーは「商品」を「市場」にポジショニングしたが、今や個人が商品にポジショニングされているのだ!(ここで言うコトラーは軽く10年以上前の話だ。いまやコトラーが何を言っているのかは知らないし、興味もない。たしか〝マーケティング3.0〟とかなんとかいう本を書店で見かけた)。とにかく、商品は市場に依存し、人間は商品となる。そしてそこでの「価値」とは、市場という名の「他人からの承認」により決定される。この事実を元に、おそらくSNSは発展すべくして発展した。カール・マルクスが2017年を見たら冷静にこう分析するだろう「承認欲求とは、資本主義の発生とその後の発達により生まれた。」いま企業はさらなる工夫を消費者から強いられる。SNSの発達によって企業は個人からなされる「発信」を軽んじることができなくなったのだ。これまで企業が広告代理店を通じて買い取っていた「枠」は、今や個人に引き継がれつつある。そうしたなかでInstagramのフォロワーを売買する会社が現れるとインスタグラマーのアカウントを審査する会社も現れる。それらはすべて「情報」という価値ある商品を扱った産業だ。もちろん数年後にAI技術が本格的導入されると状況はますます激化するだろう。現代は「繋がる」時代だと言って、大衆は「いいね!」のボタンを押す。繋がる時代とは、共感の時代のようだ。私はそんなヴァーチャル空間に足を踏み入れると、「嘔吐」しそうになる。それは「呆れ」や「怒り」のような感情よりもっと身体的な反応としての気持ち悪さだ。
2011年震災後、大衆は目覚めたように現実を観て、ヴァーチャルで発信し語り合った。そこには混沌としたカオスから新しい何かが生まれる前のような熱があった。「このツールで何かが変わるのかもしれない!」私もそう思った。しかし時間の経過とともに熱が冷めると(あぁこれはけっきょく宇宙の法則なのだ!)人類は歴史が証明する通りSNSという道具に余す所なく支配された。5年後に、隣町で地震がおきた。私はその時に、「このヴァーチャル空間から一刻も早く退場しなければ!」と嘔吐したのだ。大いに誤解を招く言い方だが発言しよう。私があのときあの空間で見たものは、「絆」という言葉の消費に縛り付けられ、そこに「依存」を求めた個人の姿だ。
ナポレオン後に自由を獲得した人間は自由という孤独の重みに耐えられずヒットラーに服従した。個人は「絆」とは別の方法で、自らに方向性を与え、世界を歩かなければならない。「孤独」を引き入れられない人間はニヒリズムに陥り、そこにSNSのような限定された空間があると、ある種のファシズムが生まれる。ヒットラーは言う、「大衆集会は必要である。個人がはじめて大衆集会に足を踏み入れ、同じ信念をもつ人々との間に身を置くなら、彼は我々が大衆暗示と呼ぶところのものの魔術的な影響に屈する。」いまスマートフォン画面を習慣的に眺めるあなたはヒットラーに服従しないと言えるだろうか?21世紀のアイヒマンにならないと言えるだろうか?天皇制ファシズムというイデオロギーに従い、「特攻」しないと言い切れるだろうか?あらゆるイデオロギーはシステムが生み出した虚構にすぎない。
気狂いが!突然何を言いだすか?と思われるかもしれない。しかし情報とは、それほどまでに危険なツールなのだよ、諸君!スマートフォンに縛り付けられた現代人は全員なにかしらのニヒリズムに陥っている。19世紀に生きたニーチェが既に予言しているのだ。「20世紀と21世紀はニヒリズムの時代になる。」ニーチェが2017年を見ると警告を発するだろう、「自己は他者の承認を必要としない!実存に目覚めろ!自分を自分以外に支配させるな!物に支配されるな!奴隷になるな!」キルケゴールならこう警告する、「SNSという同じ情報、同じ価値観にまみれ生きていると自己が失われる。それは自己喪失であり、精神の滅びであり、絶望であり、死にいたる病である。」さらにヤスパースが援護する、「つまり心の内から沸く声に耳を傾け、まずは単独者として孤立する。孤立者同士の緊張と孤独をはらんだ交わりこそ、人間を自己の実存に目覚めさせるものとなる。」ハイデガーも口を挟む、「誰しも避けることができない〝死〟という現実を直視し、それを積極的に引き受けることによって、人は本来の自己に目覚める。実存に立ち返った人間はSNSのような世間に埋没して、時間を浪費するようなことはしない。」最後にサルトルが締めくくる、「人間は情報の刑に処されている。自由を欲する欲求と、承認を欲する欲求は、反対する。」

さてそのようにして、いまや私がスマートフォン画面を立ち上げると直ぐさまアダルトサイトのバーナー広告が現れ、速やかに動画サイトへ誘導される。どうやら私は連中に「マスかきK」とかいう印でも付けられたのだろう。もちろん実際にその通りだ。今やインターネット空間でアダルトサイト以外に消費するべきものが何かあるだろうか?資本主義という自然環境が行き着いた先は、サンプル動画でヌケる時代だ。これは精液消費者(つまりほとんど全てのホモ・サピエンス雄)にとってこの社会に生きる美点であり、アリストテレスが言うところの〝最高善〟カントが言うところの〝無条件の善〟は21世紀のグローバル化するアダルト・カルチャーにより実現された(おっと、私はどうやらウェルベックの文体に犯されている!そろそろ正気に戻ろう!!)いまや「資本」が人間を要求し、創造する。飽くことなく消費する人間。全てにおいて基準化され、他からの影響を受けやすく、行動予測のたつ人間。物を消費し、情報を消費し、孤独をまぎらわす人間は「資本」にとっての「商品」となる。インターネットによるお手軽なコミュニケーションが我々に速やかな逃亡の方法を教え、資本主義という体制の下それが消費に直結する。大量の消費が必要なのは、人間が孤独になった為だ。資本主義が成立する原理とともに、資本主義は自由という名の孤独を発明した。
ウェルベックの『地図と領土』(芸術家ジェドの話だ)に話を戻そう。資本主義の中にあって、生産の重点は「創造的行為の満足」ではなく、完成された生産品の「消費価値」におかれる。そのようにして、人間は自分に本当の幸福を与えてくれる「現在の活動の満足感」を逃し「成功という名の幻」の幸福を追い求めはじめる。しかし自身を創造的人間と感じる人間の人生になにか意味があるとすれば、それは生きるという行為そのものにある。それは人間の自発的活動により瞬間瞬間に獲得される快楽を源とした「自己実現」であり、それは幻を必要とする諸要件を排除した「本当の自由」だけが与えてくれる幸福である。人間は自発的に社会参加するときにのみ孤独を克服することができるのだ。チャップリンがモダン・タイムズで発した警告は時代が進むにつれて意味を増し強力なものとなった。「我々はもう、すっかり大きな機械の歯車の一部になってしまったのだ!」
『産業革命』とは、現代人の性格構造構築の時代でもあった。そのような時代でニーチェにより個人の、マルクスにより全体の警告が発せられるが『情報革命』の時代を生きる我々現代人の人生はもうすこし複雑なものとなる。ここにひとつ、例をあげてみよう。

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(例) 人生は、西瓜。
ここに1人の男がいる。職業は個人的トレーダーとしておくが、ここはサラリーマンにでも公務員にでも好きなように変えてよい。30歳を過ぎた彼は大抵の人間がそう考え始めるように、人生おき「生きることの意味」を見いだせずにいる。それでも彼がそんな考えを取り合いず横に置いて生きていけるのは、彼が「資本主義」というシステムに巻き込まれているからだ。
彼は毎朝6時に起床してシャワーを浴び、「日本経済新聞」を読みながら朝食を食べ、コーヒーを飲む。ラジオをつけ、モニタで情報を収集しながら徐々に意識を〝取引〟に向けていく。昨晩のニューヨーク、ロンドンの値動き、ドル、円の動き、ニュージーランドとオーストラリアの為替マーケット、ポディション、ランキング、海外と国内のニュース情報を収集し、心電図のような銘柄チャートを見ながら思考して取引開始時の気配を探る。9時になり、取引が始まると同時に2台のパソコンと4台のモニタの前で人間に備わる〝器官〟という材料をひらき、それを総動員する。彼は自分にルールを設ける。【市場への解釈を欲し、流れを認識すること。大きく考え、小さく考えること。最悪を考え、最高を考えないこと。リズムをとり、リラックスすること。そのため情報は選別し、無目的な情報を受信しないこと(テレビやラジオから耳を塞ぐ)。世界を妄想し、取引そのものを楽しむこと。それはすなわち「解釈」や「認識」そのものについて考えること。】積み上げたルールを守ってプレイする限り、彼がこの社会で生活するために金を稼ぐことはもはや困難ではない。「世界はバウムクーヘンだ。表面の層を見るのではなく、その下にある層を〝観る〟しかし何重にも重なった層の中心にあるものは、丸い穴。情報ばかりを追いかけていると、その穴に落ちる。本当にシステムを捉えようと試みるのなら、人はバウムクーヘンを真上から眺めて〝歴史的〟に考える必要がある。」集中して、目の前に現れる現象に瞬間的決断を下すという作業を息継ぎをしらないスイマーのように続けていると、脳内に「ある」と言われるニューロンからニューロンへ、プツプツとシナプスが飛び交う音が聴こえてくる。ここがもう限界、オーバーヒート、プッシュー。そんな時こそ、「コーヒーブレイクしよう!」彼はインドネシア産の深煎コーヒー(スマトラ・マンデリン・アチェ)を淹れ、それを片手にリラックスしながら東インドオランダ株式会社に植民地化されたインドネシア人のことを歴史的に想像してみる。大航海時代に、ヨーロッパ人は新大陸との貿易に国の基盤を置いて反映した。オランダ人はインドネシアからコーヒー生豆を持ち出してそれを新大陸へ伝承したが、その過程で思いがけない仕組みを発明した。投資家は、航海へのリスクヘッジのために航海ごとに出資者を募り、有限責任の株式会社というシステムを考えたのだ。そこに〝資本〟と呼ばれるものが生誕し、時代は新しい商業作物を探して、コーヒーがクローズアップされた。そこでの原則原理は『安く買い高く売る』だ。「俺も同じじゃないか!」と彼は思う。巨大なシステムの隙間で、毎日ささやかな株式の移動を行う。時代が進むにつれ労働者は自分より多くの資本をもつ独裁者の力に直面した。資本が決定的に重要なものになった現代では、経済が人間の運命をも決定する。資本は人間の主人に、人間は資本の奴隷となり、資本は〝資本主義〟というシステムになった。高度に発達した資本主義社会では、労働ではなく投機が現実的利益を生み出す。彼は銀行と投資家のみを潤し、労働者を貧困に追いやる19世紀のイギリス社会で資本主義を批判するマルクスの姿を想像するがそんなマルクスには半分しか賛同できなかった。結局のところ、「資本」が「個人」を解放したのだ。個人は資本の誕生により、自己の運命の主人になった。成功も失敗も、独立も依存も、全て自分の手で管理することが可能となったのだ。貨幣は人間を平等なものにし、それは「階級社会」より強力なシステムとなった。「資本主義社会」の内で活動的な役割を果たせば、すくなくとも誰もが自由を手に入れることが出来る!
コーヒーを飲み終えると、彼は目の前にあるモニタを眺めた。「このさきに誰が居るのだろう?」相手はニューヨーク高層ビルの住人かもしれない。アラブの大富豪かもしれない。あるいはそれは人間ですらなく、ただのコンピューターでアルゴリズムかもしれない。見えない相手とマーケットで貨幣の奪い合いをする。「仕方がない」と彼はつぶやく。ここは資本主義社会だ。

夜眠りにつくとき、彼は「歴史」について考える。「人間はみな、時代の息子だ。」ヘーゲルは果てしない広がりをみせる自身の哲学探究の根本に、歴史をおいた。「神」を世界の創造者としてではなく世界のすべてとし、デカルト的な精神と物体(我思うゆえに我あり、だ。)の二元的区別以前の絶対者である「神の動き」を「絶対精神」と名付け、歴史とはこの「絶対精神」が人間の自由な意思を媒介として自己の本質である「自由」を外側に表現し、展開し、「体制」として現実化していく過程だとした。あたかも画家が作品に自己を表現し、対象として外に表すことで画家となるように。「世界は、自由な意思の進歩である。」ヘーゲルは自らの情熱により活動するものの背後に控え自己の目的と一致するものを成功させ他を没落させながら歴史を推進させるものを「世界精神」と名付け、自分の住む街にプロイセン軍を破ったナポレオンが入場する姿を見て、「あれが世界精神だ」と言った。歴史とは、対立を媒介としたうえで「総合」へ向かう運動だ。「あるもの」は全て自身の内に自己と対立する矛盾を含んでいる。その矛盾を、より高い立場で総合することで、「新しい統一」に至る。つぼみは自らを否定し、花となる。つぼみ(テーゼ)と花(アンチテーゼ)が対立してより良い存在にアウフヘーベンし、果実が生まれる。つまり低次の矛盾は高次の段階に移行することで、それが有機的統一のきっかけであったことが明らかとなる。これが有名な「弁証法」だ。ヘーゲルは絶対精神の運動法則を解明するために、弁証法を生み出した。「自然や社会はすべて弁証法によって運動する。」ヘーゲルは「自由」というカント的道徳を個人の内面の主観に留めず、現実社会の客観的な制度にあらわれる「人倫」の問題として捉え、人倫の最高継体を「国家」と考えた。
1. 家族は、自然の情愛で結ばれ情愛を制度化して高めた人倫の形態だが、やがて子供は成長し、親から自立し、家族を離れて一人の市民となる。
2. 市民社会は、個人が自由に欲求の充足を求めて仕事をし、仕事を通じて相互に依存する。それは契約で結ばれた人倫であり、法と行政が管理する経済社会である。競争原理が支配するこの社会は各々がお互いを自己の欲求の為に利用し合う欲望の形態に他ならい。
3. そうして家族と市民社会との矛盾をアウフヘーベンすべく、国家が現れる。ヘーゲルは立法議会(つまり国会)と行政(つまり内閣)の官僚組織を備えた立憲君主制(つまり今の日本そのもの)を思い描いた。ヘーゲルは、国家こそが、有機的な全体として個人の自由と共同性を共に実現するものだという夢を思い描き死だ。

「ヘーゲルは間違えた」と彼は思う。言うまでもなく、今や国家は完全な機能不全に陥っている。そもそもグローバル化した21世紀で「国家」とは、ひとつの単位でしかない。「国家は何に否定されたのか?」と彼は考える。その答えはすぐに思い浮ぶ、「それは経済であり、資本主義だ。」さてここからが問題、「では国家と経済をアウフヘーベンするものは何か?」歴史は今ここにいる。彼はつぶやく。近年で、それはさらなる共同体へ向かった。ヨーロッパで「EU」が誕生し、「世界政府誕生」という言葉が囁かれた。「しかし」と彼は思う。「2016年は転換期だ。」イギリスが脱退を表明するEUが解体の方向へ向かうなかあの男が現れた。「ドナルド・トランプが象徴するものは何か?」言うまでもなく、トランプは現在の世界精神だ。ヘーゲルが見た「ナポレオンの自由」は「ヒットラーの服従」に否定され、ドナルド・トランプにアウフヘーベンされた。「トランプは、分からない。」と彼は思う。テレビではジャーナリストや経済学者が意見を語る。ポピュリズムの台頭。グローバリズムの衰退。ナショナリズム化する世界。第三次世界大戦の可能性。しかし現代人はメディアが予想のつく退屈なことしか言わないということに慣れているし、誰もそんな話に本気で耳を傾けてはいない。これは新聞も、ラジオも、そしてインターネットも同じだ。「今は観ることしかできない」と彼は思う。判断はできない。目で見るのではなく、思考で捉えようと試み続けることしかできない。こうした次元で、情報はその価値を無くすのだ!
彼は今日の彼の思考で捉える。ドナルド・トランプが示すのは、「さらなる共同体」から「個」への移行なのかもしれない。そう考えると、トランプがTwitterを活用していることが面白くなる。「トランプは遥か先の未来を見ている可能性がある。」もちろんそれは希望的な観測でしかない。世界を大いに妄想する。ニューロンが活性化し、シナプスが飛び交い、それが徐々に静まる。頭のなかで観念が消え去ると、目の前が薄暗くなる。夢と、現実のジャンクションのような地点に入った瞬間に、彼は突然激しい現実に思い当たった。
「問題はそんなことじゃない!」暗闇で叫ぶ。「なんてこった!!俺はもうすぐ40歳じゃないか!」彼は咄嗟に、「自分の歴史」を振り返る。しかしほとんどなにも思い出せない。たしかな記憶として思い出した光景は、酔っぱらってはじめて体験するセックスの味だけだった。「仕方がない」彼は自分にアインシュタイン的慰めの言葉をかける「時空のなかに投げ込まれた人間はそれぞれにそれぞれの幻影を見ている」仕方がない。あるいはプラトン的慰めがある「我々は限られた形でしか、世界を捉えることができない。我々の魂は理性を通じ、思考でしか捉えることのできない世界〔イデア界〕にいる」仕方がない。この世界には、デカルトや、スピノザや、ライプニッツ的慰めもある。「生きることの意味?」そんなことを考えても仕方がない。

さて、このような〝人生〟をおくる彼はある日、書店でカミュの『シーシュポスの神話』を手にし、一行目を読んだ瞬間〝真理〟に達した。【真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずはこの根本問題に答えなければならぬ。そして、ニーチェののぞんでいることだが、哲学者たるもの身をもって範をたれてこそはじめて尊敬に値するというのが真実であるとすれば、そのとき、この根本問題に答えることがどれほど重要なことであるか・・・・・】彼は直感的に感じる。人生に「目的」があるとしたら、それは「死ぬ」ということだけだ。そうして、彼の「西瓜人生」がはじまる。ゴータマ・シッダールタという人間が菩提樹で瞑想し仏陀となったように、彼は彼の個人的真理に達したのだ。
生まれて、死に至るまでの間にある時間と空間(アインシュタイン風に言えば4次元)の中で「生きることの意味」とは、「6月から11月にかけて、毎日西瓜を食べ続けること」これが、これのみが真理だ!

さてここで、彼の「食生活」の一部を少しだけ話す必要に迫られる。彼はもともと西瓜よりメロン派だったがメロンは高いのであまり買えず、メロンの次に好きな果物がたまたまマンゴーだった為にやはりこれもあまり買えず、その次の好きな果物はマスカットであり、これはものにより買えたが、やはり安いものはそれなりの味でしかなく(甘味を渋みが包み隠す)一度デパートへ行って高いものを買おうと思い値段を見ると、マスカットというやつはどうやらものによってはメロンやマンゴー以上に高く「こんなもん買えるか!」と怒りに任せて金生饅頭を頬張っていると、「そもそも果物なんて食わなくても生きていける。」というシンプルな結論に至り、果物を食べる習慣がほとんどなくなった。しかし2年前の6月あるゲリラ豪雨の日。スーパーの入り口で「指宿産徳光西瓜」というものが特売されており彼は試しにひとつ買ってみた。ところで彼が中学生の頃には所謂「バンドブーム」があり、彼もそこで様々な音楽に出会ったものだがとりわけ「ニルヴァーナ」の「ブリード」という曲に出会った時の衝撃以上の衝撃がこの西瓜にあった。彼がメロンとマンゴーを好きな理由は、なんと言ってもあのトロン!とした濃厚な甘さにあったのだが、それに比べ西瓜という食べ物はなんだか気のぬけたコーラのように水っぽいものだというイメージしかなく、はっきり言って2年前の彼は西瓜を(世の男がジャニーズ・ジュニアを見る目のように)馬鹿にしていたが、しかしその「徳光西瓜」にひと口かぶりついたとき彼の身体に並々ならぬ快楽の電気信号が走った!この快楽は、バンド時代LIVE前楽屋でエクスタシーを突っ込みブリードを演奏したとき以上の快楽であり、それから彼は冷静にこの西瓜の言語化を目指すが、行き着くところはウィトゲンシュタインの言うところ「語りえぬものについては沈黙しなければならない」であり、つまり西洋で言うところ「神」と同等の存在をこの西瓜に認めた。まず「甘味」を評価すると、それは高級メロンやマンゴーのそれと同等であり、あのトロン!としたボディーは期待できないが、西瓜を食べはじめて彼はあるひとつの事実に気が付いた。結局のところ、彼は歳をとったのだ。トロン!としたボディーは最初のひと口ふた口目は猛烈に旨く感じるのだが、それが続くと胸にもたつきのようなものを感じるようになっていた。彼の頭には最近白髪が目立ち始め、10歳の娘とサイクリングに行くと、「パパ弱ったね」と言われる。根が、生まれつきの虚弱体質なうえに根性なし(根性という社会的概念がまったく理解できない)ときている彼(スポーツマンとして読書する彼にとって、努力という記号は解釈への強烈な欲求にほかならない)は、最近「生命力の衰退」というものをけっこう本気で感じるようになっていた。「エクスタシーでニルヴァーナ」は、もうはるか遠い記憶なのだ!(本当にそんなことあったかな?)今では毎日早寝早起き、適度な運動と入念なストレッチ、禁煙と薄味を愛している。彼はこれまでそれを言葉にして発することを避けてきたのだが、じつはマンゴーとメロンに「胃のもたつき」を感じ始めていたのだ。それに比べると、この西瓜にはみずみずしい「透明感」がある!甘味に包まれた爽やかな酸味もある!これならいくらでも食べられる!そして値段もお手頃だった。400円前後で8分の1カットを買える。これは高いと言えば高いのかもしれないが、昔は毎日煙草を2箱も消費していたのだと考えると安いのかもしれないと思った。それ以来彼は毎日スーパーに通い、西瓜を消費した。特光西瓜の旬が過ぎると、大分や千葉や神奈川や長野から彼に旬の西瓜が供給される。10月が過ぎ、そろそろ西瓜も終わりの時期だという事実に絶望を感じるさなか山形県から「尾花沢西瓜」が供給された。これが安定して糖度13を越える代物で特光西瓜と同等レベルに旨い!この高度に発達した資本主義社会のもと社会化され「旬」の差別化を促された高糖度西瓜は人間に1年の半分も美味しい西瓜を食べるという権利をもたらせており、彼はこの現象を『資本主義化する西瓜、或は西瓜のマルキシズム。』と名付けた。
さて、そのようなわけで、「6月から11月にかけ毎日西瓜を食べること。」それが高度資本主義社会に生きる彼の存在理由レゼンデートルとなったのだ。人間とは分子の配列であり、人生とは西瓜にかぶりつく瞬間毎に獲得されるものだ。もちろん彼のそのような真理は「快楽主義者」の思想であり、それを追及するのなら彼は21世紀のディオゲネスになりきるより道はない。「それも悪くない」と思う。樽に住むのも楽しそうだ。しかし12月になると、状況が一変する。彼にはもう西瓜の供給がない。そうして嫌でも思い出すことになるのだ!「ここは、古代ギリシャではない。」彼は樽から顔を出し、辺りを慎重に見まわす。「6月から11月までが西瓜を食べるためにある」とするなら、「12月から5月は何のためにあるのか?」彼は樽から身体をだして、地図を持たずに世界をあるく。もちろんこの男は、まだ「愛」を知らない。彼はいま、垂直の崖の上に立っている。
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ひとつはっきりさせたい。私は資本主義を否定しているわけではないし、まして肯定しているわけでもない。これはただの「土壌」だ。その土壌で、米と野菜を作って海で魚を釣り、山で猪を狩って、裸体主義精神を守りながら好きな絵を好きなように描いて暮らせばよい、と主張するわけではないが勿論それを望むのならそうすれば良い。株式市場の中で「奪い合い」をしながら生きたいと望むならそうすれば良い。我々はみな自由なのだ。『多様性の祝祭』とは、なにもコーヒーだけに限った話ではない。それは『世界が世界であることの面白み』だ。それでは、私がここで「何を主張したいのか?」と問われると、そんなものがあれば初めからそれをストレートに主張すれば良いだけの話でそれが分からないからこうしてだらだらと文章を書いるのであり、その「書く」という行為そのものが唯一の目的だ。しかしここまで書いて、私はいま偶然にもひとつだけ主張らしき主張を発見した。それはすなわち、これまでだらだらと述べてきたような理由から、「当店での写真撮影はご遠慮ください」と言うことであり、この情報社会の中それを「禁止します」と言っては的外れだが、ついでにもうひとことだけ言わせていただくと、どうか、目の前にある一杯のコーヒーそのものを楽しみください。撮影が終わった後のコーヒーは、気の毒なほどに冷めて劣化している。

ものの終わりにひとつだけ質問を投げかけたい。
Q 我々にとって、一番大切な「情報」とは何か?
もちろん、答えそのものが世界の面白みだ。例えば、ドストエフスキー(ここで風呂上がりの犬を思い出してもらいたい)なら、こう言って身体をブルブル振わすのかもしれない。
答え、自分自身のこと。ブルブル

グッドネイバーズ・ミーティング「ホーリー・マウンテンズ・ツアー」

2017.05.30

2017611日(日)18:00pmより(2時間程度)開場は17:30pmとなります。

参加費:1,500+ワンドリンクのご注文をお願いします。(オフィシャルブックレット付き)定員:40

 

話し手:坂本大三郎/山内悠/吉田智彦(ホーリー・マウンテンズ展参加作家)・豊嶋秀樹(ホーリー・マウンテンズ展キュレーター)

プレゼンター:坂口修一郎(GOOD NEIGHBORS JAMBOREE主宰)

会場:コーヒーイノベート 〒892-0816 鹿児島市山下町12-12 #101

予約とお問い合わせ:電話099-210-7237 メールcoffeeinnovate@po2.synapse.ne.jp

Facebookイベントへの「参加」ボタンではなく、メールでご予約ください。

<内容>

2014年のGOOD NEIGHBORS JAMBOREEにも参加した豊嶋秀樹がキュレーションし、2016年にモエレ沼公園(札幌)で開催された展覧会、「ホーリー・マウンテンズ内なる聖山へ続く三本の足跡」の中で上映された映像(約30分)を中心に、スライドを交え、企画者が展覧会で伝えたかったことについて語るトークショー形式のツアーイベントです。

各地に残るモノガタリを求めて旅を続ける山伏の坂本大三郎。自らの宿命とも言うべき内的な衝動に突き動かされ、山からはじまる自然世界を写し続ける山内悠。一万日登山を目指し26年間毎日山に登った東浦奈良男、そして東浦に肉薄し取材を続けた吉田智彦。

彼らは、「山」に人智を超えた何かを感じたのでしょうか。

彼らの内なる聖山へと続くそれぞれの足跡に導かれ、知り得なかった豊穣な世界への扉を開いてみましょう。

<参加作家、出演者の情報は下記のリンク先をご覧ください。>

モエレ沼公園での「ホーリー・マウンテンズ」展告知ページ:http://moerenumapark.jp/holymountains/

モエレ沼公園での関連企画「三つの世界」展告知ページ:http://moerenumapark.jp/holy_dance/

 

<展覧会関連記事>

colocal 掲載記事: http://colocal.jp/topics/art-design-architecture/local-art-report/20160811_78759.html

<参加作家プロフィール>

|坂本大三郎 SAKAMOTO Daizaburo

1975年千葉県生まれ。芸術や芸能の発生や民間信仰、生活技術に関心を持ち東北を拠点に山伏として活動している。春には山菜を採り、夏には山に籠り、秋には各地の祭りをたずね、冬は雪に埋もれて暮らす。著書に『山伏と僕』(リトルモア、2012)、『山伏ノート』(技術評論社、2013)がある。2016年は「みちのおく芸術祭山形ビエンナーレ2016」、「瀬戸内国際芸術祭2016<秋期>」に参加予定。

 

|山内  YAMAUCHI Yu

1977年兵庫県生まれ、長野県在住。独学で写真をはじめ、スタジオアシスタントを経て、作品制作を続ける。計600日を富士山七合目の「大陽館」にて過ごす。滞在中に撮り続けた作品をまとめた写真集『夜明け』(赤々舎)を2010年に発表し、国内外で個展を開催。2014年、「大陽館」の主に焦点をあてた山小屋での日々を著した書籍『雲の上に住む人』(静山社)が刊行される。近年は、長野県を拠点にしながら屋久島、モンゴル等での撮影を続けている。http://www.yuyamauchi.com

 

|東浦奈良男/吉田智彦  HIGASHIURA Narao/ YOSHIDA Tomohiko

東浦奈良男 1925 年大阪府生まれ。第二次世界大戦中に三重県度会郡小俣町(現伊勢市)へ移住。乗鞍岳で登山の魅力を知り、地元の山と富士山や日本アルプスなど全国の山を登り歩く。1984年に定年退職後、翌日から連続登山を開始する。登る山を富士山と地元の山にしぼって、目標を一万日とした。20116月、体調を崩し、連続登山はストップ。その後、容体は回復せず、同年12月に86歳で逝去。記録は9738日だった。連続以前の登山も合わせて、富士山へ368回登頂している。

吉田智彦 1969年東京都生まれ。20代半ばにニュージーランド、カナダ、アラスカなどを巡り、自然と人間のあり方を考えるようになり、ノンフィクションや写真、絵を発表しはじめる。スペインのサンティアゴ、チベットのカイラス山など世界の巡礼路を歩き、全熊野古道、四国遍路を踏破。2012年に上梓した著書『信念東浦奈良男一万日連続登山への挑戦』(山と渓谷社)では、東浦に随行し山を登る姿、生活の様子を追い、東浦が亡くなるまで取材を続けた。その他著書多数。

http://tomohikoyoshida.net/

 

<キュレーター・プロフィール>

1971 年大阪生まれ。1998graf設立に携わる。2009年よりgm projectsのメンバーとして活動。作品制作、展覧会企画、空間構成、ワークショップなど幅広いアプローチで活動している。これまでの主な仕事に、「押忍!手芸部と豊嶋秀樹『自画大絶賛(仮)』」(2011、金沢21世紀美術館)でのコラボレーション、「三沢厚彦ANIMALS」(20112015)、「あいちトリエンナーレ」(2010、愛知県美術館)、「新次元・マンガ表現の現在」(2010、水戸芸術館、茨城/韓国/ベトナム/フィリピン/国際交流基金)での空間構成、「KITA!!: Japanese Artists meet Indonesia」(2008、インドネシア/国際交流基金)でのキュレーションなどがある。また、奈良美智とのコラボレーション、YNGの中心的人物であり「奈良美智+graf A to Z」(2006、青森)をはじめとして世界各地で開催されたプロジェクトに参加。2015年には編著書『岩木遠足人と生活をめぐる26人のストーリー』(青幻舎)を刊行した。http://www.gmprojects.jp/

 

<協力> モエレ沼公園(公益財団法人札幌市公園緑化協会)

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